nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

藤井誠二『黙秘の壁: 名古屋・漫画喫茶女性従業員はなぜ死んだのか』(潮出版社)を読んだ。

黙秘権が被告人の権利であるということは中学高校の社会科レベルの常識であるが、加害者の権利を守るという性質上、否応なく被害者の権利とは衝突してしまう。本書は黙秘権が「衝突」を通り越して、被害者や被害者遺族の権利を「踏みにじった」といわざるをえない、とある事件のルポタージュである。

事件はインターネットカフェを経営していた夫婦がそのパート従業員を死に至らしめ、その死体を遺棄したというものである。この加害者夫婦は被害者女性に対して、凄惨な暴力を恒常的に加えることで、彼女を奴隷的な拘束下に置き、常軌を逸した長時間労働や給料の未払い、経営費用の肩代わりなどを数年にわたって強制していた(明記されないが、そのような奴隷扱いを長期間受けた結果、被害者女性は精神に異常をきたしていたようである)。その挙句に日常的な暴力の延長で被害者女性を死に至らしめ、その遺体を山中に遺棄するのである。ここで加害者夫婦は告白書のようなものをしたためており、自らが殺害したことを書面上は認めているのだが、裁判では黙秘権を行使。警察や検察も殺人としては立件できず、結果としては死体遺棄として2年そこらの懲役にしか問えなかった。つまり人ひとりを殺したことが明らかにもかかわらず、2年も過ぎれば娑婆で自由の身。鬼畜外道・人面獣心の所業としか言いようがない。

被害者遺族を傷つけるのは、殺人者が殺人者として裁かれなかったことだけではなく、真実が明らかにならなかったことである。愛娘の最期がどのようなものであったのかを知りたいというのは人の親として当然の感情だろう。しかしその最期を知る人間は黙秘権をたてに何もしゃべろうとしない。また真実を知るべく、さまざまに活動してみても、加害者の代理人である弁護士があの手この手でこれを妨害。ときには被害者女性の名誉を踏みにじってまで、加害者の権利を擁護する。これが加害者の権利であり弁護士の仕事であるとわかっていても、残るのはわりきれない気持ちばかり。「刑事がだめなら民事で償ってもらう」というのも被害者遺族の当然の権利であり、実際に民事裁判では加害者が死に至らしめたことが認定され、相応の賠償が命ぜられるのだが、加害者は1円たりとも払う意思を見せていないという。

とりわけ冤罪の防止という観点から黙秘権というのは市民社会にとって重要な権利であることは承知しているし、実際、本書もそのスタンスである。しかしだからといって被害者やその遺族の権利をないがしろにしてよいか、と問われるとそれは違うだろう。被告人の権利を守りつつ、被害者の権利や名誉や損害も十分に回復できるような仕組みがあればよいのだが、わたしには思いつかない。わたしごときが思いつく程度であれば、だれも苦労しないし、悲しい思いもしないのである。

ところで自白の強要を防ぐべく、取り調べの全面可視化が大いに議論されている。しかし自白の様子が映像という言い逃れのできない形式で記録されるということは、かならずしも被告人に有利に働くとは限らない。たとえば「自白の強要があった」として無罪を主張するようなことは、取り調べが可視化されると難しくなる。本書によると、日本弁護士会はそういう情勢を見据えて、刑事裁判において黙秘権を積極的に活用するように呼びかけているという。要するに本書が取り上げた事件のようなこと、すなわち黙秘権により被害者の権利が黙殺されたり踏みにじられたりするということが、今後頻繁に起きてもおかしくないのである。長い間日本では、犯罪捜査や刑事裁判において被害者や遺族の権利はないがしろにされており、近年になってようやく権利意識が高まってきたということはよく知られているが、今後それが後退するかもしれないとなると、暗い気持ちにならざるをえない。

沢渡あまね『システムの問題地図 :「で、どこから変える?」使えないITに振り回される悲しき景色』(技術評論社)を読んだ。

システムの問題地図 ~「で、どこから変える?」使えないITに振り回される悲しき景色

システムの問題地図 ~「で、どこから変える?」使えないITに振り回される悲しき景色

もともとはCodeIQ Magazineで連載、CodeIQがSunSetした後はリクナビNextジャーナルに移籍した「運用ちゃん」という連載があって、いつも楽しみに読んでいるのだが、この「運用ちゃん」の作者(シナリオ)が書いた本だということで、興味をもって読んだ1冊です。

運用ちゃんの記事一覧 | リクナビNEXTジャーナル

本書のターゲットはIT業界全般というよりはむしろ受託開発。受託開発における問題とその原因が、ユーザ側と受託側の両方の観点からうまく整理されています。よくもわるくもSIは日本のIT業界の中心であり、かかわる人も多いはず。わたし自身もSIに勤めるSEなので、本書であげられるエピソードには「あるある」と首肯しつつ、ちょっと遠い目になってしまったり(´・ω・`)

「あるある」ポイントをあげだすと、まったくきりがないのですが、読書メモからいくつか抜粋しておきます。

  • 「運用でカバー」。これは本当にやめましょう、というかやめて(´;ω;`)ウゥゥ DevはOpsのことを考えてシステムを構築しない、というか予算や納期に押しまくられてOpsのことまで考えている余裕がない。Opsはひどいシステムのお守りに時間を取られて、スキル向上や現場カイゼンに割く余裕がない。DevとOpsに一線を引く、そして前者を上位におく日本のIT業界の慣習は改めていく必要がありますね。
  • 「俺はITシロウト」という開き直りは、程度の差はあれよくやられる手法です。エンドユーザならともかく、情シスや情報子会社までこの開き直りすることがあって、これが本当にたちが悪い。この開き直りをどうさばくのかがベンダーの腕の見せどころなのですが、金を払う側ともらう側という関係上、コントロールがなかなか難しいというのも現実だったり……。
  • 予算の見積もりや要件定義が甘くて炎上。プログラマの屍を積み上げて、その炎上を消し止めたものの、構築したシステムをユーザは使おうとしない。だれも幸せにならなかったパターンですが、SI業界にはざらに転がっています。まったく生産的ではないので、すくなくともわたしの世代で止めていきたい(謎の決意)
  • システム開発においては要件定義が重要。というか上流が失敗すると、まず間違いなくPJTは炎上もしくは破綻します。業務要件はもちろんのこと、忘れられがちなのがシステム要件。いわゆる非機能要件というやつで、ユーザはどれぐらいか、DiskやCPUはどのぐらい必要か、サービスの開始と廃止の基準はどのように設定するのか etc。これらをないがしろにすると、本当に痛い目に合うので、気を付けましょう(実体験&現在進行形)

「問題地図」とタイトルにあるとおり、システム開発・受託開発における問題点がこれだけうまく整理されている本はほかにないのでは? SI側の人間はもちろんのこと、何の因果かユーザ側のIT部門に飛ばされたというような人にとっても、勉強になる1冊ではないかと思います。ただ褒めるだけはよくないので、しいて文句をつけておくと、本書は「問題を列挙する」ことに焦点を置いています。もちろん、問題点をMECEに列挙するだけでも、たいへんな価値はあるのですが、それをどう解消するかについてはやや薄いという感想を持ちました。

もちろん問題に対する解決策が示されないわけではないのですが、やや書生論のきらいがあるように感じたのも事実。たとえば業界全体の風土の刷新であるとか、ユーザ企業側のリテラシ向上であるとか、確かにその解決策は理想的で論理的ではある。しかしなんの力も持たないSIer勤務のSEや社内SEが身近なところから実践していきたいという場合、本書には即効性はないと言わざるを得ないでしょう。

ただそんな即効薬を本書に求めるのは間違っているという指摘は正しいですし、本書の価値のほとんどは「問題点をまとめて、論理的にわかりやすく説明してみた」というところにあります。そんなに分厚い本ではなく、実際サイゼリアで夜ご飯とデザートを食べながら1.5時間ぐらいで読み切れる分量(行儀悪い!!)なので、SI業界に問題意識がある人(いない人などいるのか?)は読んでみて損はない1冊だと思います。

水谷竹秀『だから、居場所が欲しかった。 --バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社)

コールセンターというと、カスタマーサポートにはなくてはならない存在ではあるものの、労働集約型で特殊な技能が求められず、かつ所在地がどこにあってもよいという特性からBPOの一環としてニアショアリング・オフショアリングの対象になりやすい。日本国内だと、沖縄や北海道などに多く、IT系だと国境をまたいで大連などにコールセンターを設けることもある。とくに外資系ベンダだと、オフショアリングの割合は高まり、カスタマサーポートに電話をかけると、中国人が流ちょうな日本語で対応するということが日常的に行われている。

本書はタイにオフショアリングされたコールセンターで働く人々に関するるポータージュであるが、先ほどの例と違って、働いているのは現地人ではなく、日本人である。わざわざタイのコールセンターで働く人というのはどのような人たちなのか? 基本的には日本社会で生きづらさを抱えている人々である。非正規雇用を転々としたり、家庭環境が悪かったりで、「なじめない日本社会にいるよりはましかもしれない」と心機一転タイへやってくるのだが、在タイ邦人社会にも階層があって、なかでもコールセンターで働く人は最底辺に位置づけられる。物価の安いタイ社会において、日本にいるよりは"豊かな"暮らしを送ることはできるものの、かならずしも"裕福"とはいえない生活の中で、なおもかれらはコールセンターで働き続けている。

サブタイトルには「コールセンター」とあるが、本書はそれ以外も取材を行っている。たとえばタイは売春産業が盛んなことで知られるが、これは男性向けばかりではない。つまり女性が男娼を買うことも一般的であり、日本人女性がゴーゴーボーイ相手に派手に遊びまわる光景も珍しくないという。あるいはタイは同性愛にも寛容な文化であり、その寛容さにひかれて、いわゆるLGBTと呼ばれる人々が遊んだり移住したりすることも多いようだ。

本書を読んで強く感じるのはタイ社会の寛容さであり、その対象として日本社会の不寛容さである。タイに縁にゆかりもない日本人が働けるのは、そもそもタイ社会がそのような異邦人に寛容であるからで、逆にいえば日本社会は同じ日本人でも、レールからはずれたものは遠慮なく弾き飛ばしてしまう。男娼を買う女性もLGBTも同じことで、日本社会の不寛容さとともに、タイ社会のふところの広さを感じざるを得ない。

安田峰俊『八九六四 :「天安門事件」は再び起きるか』(角川書店)

タイトルからもわかる通り、本書のメインテーマは天安門事件で、その当時に天安門事件に何らかのかかわりを持っていた人の生の声を多数記録しているというところに特徴がある。天安門事件というと「民主化という高邁な目標を掲げた、高潔で無抵抗な学生たちを武力に弾圧し虐殺した」というような評価をしがちであるが、本書を読むと、それほど単純には割り切れない、複雑な位相が見えてくる。なかには真剣に民主化をこころざしたものもいたかもしれないが、お祭り騒ぎ的・野次馬的に参加したものもいれば、あるのは反骨精神で、運動のスローガンをなにひとつ理解していないようなものもいたようだ。烏合の衆とまではいわないものの、かならずしも統率された運動ではなかったというのは確かだったらしい。また「学生」といっても、当時の大学生は超がつくほどのエリート。裕福な家の子息も多く「西洋かぶれのぼんぼんが騒いだ結果、親にお仕置きされた」という評価もある一面の真実ではあるのかもしれない。

天安門事件に参加した人間のその後もさまざまで、社会的経済的に成功をおさめたものもいれば、底辺をさまよいつづけているものもいる。ただ「成功」したものほど、天安門事件共産党側の対応を肯定的に見る向きが多いのは、意外ではあるものの、納得せざるを得なかった。つまり「あのとき民主化を拒んだからこそ、いまの中国の経済成長があるのだ」という理屈である。

民主主義を奉ずる西欧諸国(+日本)が経済的に行き詰まりを見せるなか、成長を見せているのは中国・ベトナムラオスなどの共産主義国(=共産党による一党独裁)、軍事政権が支配するミャンマーやアフリカ諸国、そして政教一致を是とするイスラム諸国で、そのいずれも西洋近代的な価値観を拒否している国ばかりである。またエジプトを中心とした中東諸国の民主化運動が「アラブの春」「ジャスミン革命」などといって、一時期えらくもてはやされたが、時間がたってみればその多くが失敗し、無用な混乱を招いただけであった。

一応は民主主義である日本社会に育ったわたしですら、このような事実を見ていると「民主主義のもとで飢えて死ぬよりは、人権を引き換えに豊かな生活を送るのも悪くない」と思いがちではある。ここ20-30年の、史上まれにみる経済成長を肌で感じた人にとっては「天安門事件を弾圧して正解だった」というのはかなりのリアリティを持つに違いない。

本書に深みを持たせているのは、いわゆる雨傘運動の当事者にも取材していることだろう。雨傘運動の当事者たちは天安門事件に直接関与してはいないものの、「同じ学生が民主化を求めてデモをする」という点では似通った性質を持っている。そのかれらが天安門事件をどのように評価しているのか? その生の声が天安門事件に対する別の切り口が提示しているし、またそこから香港と北京の間にある、地理的歴史的経済的にアンビバレントな関係性も見えている。

明確に示されることはないものの、全体を通して筆者の苦労とその取材力の高さが伝わってくる1冊である。素材やアプローチもそうだが、本書に単なるインタビュー集・記録集以上の価値を持たせているのは、ひとえに筆者の取材の力量であろう。ひとりの読書人として興味深く読んだし、おそらく学術的にも価値があるもののと思われる。

キャリアについて少しだけ考える

プロジェクトが火を噴きまくっていて、それを収めるのに2-3か月かかり、ようやく人間らしい生活を取り戻したと思ったらもう5月も終わりである。第1四半期の終わりも見えてきた段階で、マネージャとの面談がセッティングされてしまった。自分の年次的にいって、キャリアの話を求められると思われる。

各人に好みの方法はあると思うが、わたし個人は自分の思考を整理するうえでは文章にすることが多い。他人に読んでもらう体で文章を書いているうちに、自分の考えがはっきりまとまってくる。矛盾や堂々巡りを発見しやすいし、読み返す中で新しい発見をすることもある。たまには意外な結論に文章が向かうこともあるが、それも悪くない。文字に起こす時間がかかるが、必要なコストと割り切るほかないだろう。


わたしはいわゆるSIerに勤務するシステムエンジニアで、年次的にはぎりぎり若手。自称新人といいかえてもいい。SIerといっても規模は大小あるが、わたしの勤務先は非上場だが、比較的大きいほうである。プロパーの立場に立つことが多い(90%ぐらい)が、売り上げや利益的には中堅規模だと思う。まあ典型的な大手SIerといってよいだろう。

さて弊社ではいわゆるシステムエンジニアというのは見習い・前座的なロールと考えられていて、ある程度年次を経ると次の3つのロールを目指すことが求められる。

  1. コンサルタント
  2. プロジェクトマネージャ
  3. ITアーキテクト

コンサルタントというと、戦略コンサルや人事コンサルを思い浮かべがちであるが、ここはSIer。要はITコンサルであり、ITプロジェクトの超上流、たとえばRFPを書いたり、要件をまとめるべくヒアリングを行ったりが主業務となる。

次にプロジェクトマネージャ。これはいうまでもないだろうが、「管理」を生業にするロールである。たとえば人的リソースをやりくりしたり、QCDを調整したり。PJTを成功させるも炎上させるもかれらの腕次第であり、責任は重大であるが、その分やりがいも大きいらしく、SIer(というか弊社)では花形のロールである。

最後にITアーキテクトだが、個人的にはこれがもっとも謎。ほとんどコンサルタントのように走り回っているものもいれば、ひがなDBのチューニングをしている人もいる。「ITの専門家」というようなあだ名(?)を付けられがちであるが、まったくコードがかけず、一日中Excelとにらめっこしている「ITアーキテクト」も少なくない。コンサルタントやプロジェクトマネージャよりは「技術」的なことをするひとをひっくるめているだけともいえる。

自分がなるとすればITアーキテクトだろうか? ただし消去法ではある。コンサルタントは論外。これは技術的な仕事で日銭を稼ぎたいという個人の希望もあるが、個人的な経験としてコンサルに好印象がない。多くは語らない、というか語りだすと1日2日では終わらないが、ひとつつだけ述べておく。やつらは余計な仕事を増やすだけである。

技術に明るい、あるいは関心があるプロジェクトマネージャというのもいいかもしれないが、そうはいっても弊社は大企業。要は金額的に大きいプロジェクトが多く、そのようなプロジェクトではプロジェクトマネージャは種々の「管理」で手いっぱいで、とても「技術」に関与している場合ではない。あとは個人的な志向として、ソフトウェアプロセスや要求工学のようなプロジェクトマネージャらしいジャンルに関心がないという点でも、不向きであろう。

となるとITアーキテクトが残るが、あまり気が向かないというのが正直なところ。なかでも気に食わないのが、彼らがよく使う「支援」という単語。ITアーキテクトのプロフィールを読んでいると「DBWの支援」「アプリケーション設計の支援」のように「支援」という単語がよくあらわれるのだが、わたしは別に「支援」をしたいわけではない。「支援」という発言の裏に「おいしいとこどり」というニュアンスが感じられ、普段から「おいし いとこどり」ばかりしている人は、つらい時にすぐ逃げ出すのでは?(本当につらいときに逃げ出すのはかまわないが……)

また大手SIの常として、年次が上がるとコーディングから遠ざかりがち。プログラミングが面白いと思ってIT業界にやってきた(流れ着いた?)身としては、技術に近い立場とは言え、プロダクションレベルのコードが書けなくなるのはたいへんつらい。事実ITアーキテクトでありながら、FizzBuzzすらかけないという人は現実にいて、そんな人でもなりたつ「ITの専門家」って何だろうかと思わなくはない。


技術的なロールについたとして、では何を専門として生きていくのかという問題もある。よく「アプリかインフラか」といういいかたがなされるが、話はそれほど単純ではない。アプリだといわゆるサーバサイドがもっとも人口が多いと思うが、最近はフロントエンドの需要も高い。個人的な観測範囲だとAngularJSの案件が多く、経験者はひっぱりだこと聞く(Reactは少ない--なぜ?)。またアプリはアプリでもスマホアプリはサーバサイドやフロントエンドとは別次元のスキルが求められる世界である。

インフラにしても細分化されており、仮にサーバひとつとってみてもメインフレームにホスト、WindowsAIXLinux。ひとくちにLinuxといってもUbuntuやらRedhatやらCentOSやらと種類はさまざまある。最近はクラウドがさかんだが、これはいわゆるオンプレとは別の知識が必要らしい。ほかにもネットワークやハードウェアの構築や保守もインフラといえるし、また絶対数は少ないがDBAもインフラエンジニアといってよいかもしれない。

弊社のようなロートルSIerでも自動化をちらほら聞くようになってきたが、これはアプリ分野でもインフラ分野でもある。VMWareのような仮想化、Dockerに代表されるコンテナ技術はインフラかしら。セキュリティエンジニアというのもいるが、これはアプリともインフラとも言い難い独自のジャンルである。先鋭的な企業だとSREにとりくむところも増えてきているが、これはインフラやアプリという垣根はおろか、DevやOpsまで横断するような役割らしい。最近流行しているのがデータサイエンティスト。弊社でも専門の組織ができたとか作るとか、うわさは聞こえてくるが、これはインフラとかアプリとかの前に高度な数学や統計学や物理学の知識が必要になるようだ。

いろいろなジャンルを書いてみたが、自分が携わったなかで何が楽しかったのかを振り返ってみると、まずはプログラミング。Webアプリよりはバッチのほうが好きです。あとはLinuxとそこにインストールされたミドルウェアをさわっているとき。CUIでコマンドをぺちぺちたたくのが無上の喜びである。あとはちょっとしか携わったことはないが、DBAは楽しくやった記憶がある。SQLチューニングやバックアップ管理は地味だが、なかなかやりがいがあったように思う。

--というと、サーバ管理系を志向するのがよいのかしらん。ただし、いまや銀行の勘定系をクラウド化するご時世である。コンテナ技術やインフラ構成の自動化もあって、サーバ管理者の需要は間違いなく減っていく。仮想化や自動化に強ければ生き残っていけるかもしれないが、ただ世の中には「一日中playbookを書いていてもまだ足りない」「美しいDockfileを書くことに生活のすべてをささげている」という狂人が多数いて、それに太刀打ちできるかといわれると、黙らざるを得ない。

DBAもありかもしれない。サーバ管理系よりは息は長そう。またアプリ、というかプログラミングのスキルも生かせそうではある。ただ、日本だとDBAの需要は少ないのがネック。保守運用のおまけ程度にいるのはまだよいほうで、DBA的ポジションが全くいないプロジェクトというのも珍しくない。

需要と将来性を考えると、サーバサイドが一番望みは高いのだが、スパゲッティコードとはもう戦いたくないでござる( ノД`)シクシク…


正直なところ、技術的なことをやっていれば幸せというたちで、多少ひどい環境でもプログラミングやサーバ作業ができれば十分満足。キャリアやスペシャリティといった「難しい」ことはあまり真剣に考えてこなかったのだが、そうもいっていられない時期が近付いてきたのかもしれない。ただ「いろいろやらされているうちに、何か面白いこと・得意なことが見つかるかもしれない」と思う自分もいて、なかなか自分の人生の道筋をつけられないでいる。

自分のキャリアは会社が用意してくれるわけではなく、自分で切り開くほかない。よくいえば楽観的だが、実際は流されているだけ。これはまずい。終身雇用制が当たり前の高度経済成長期ならまだしも、わたしが生きているのは新自由主義と自己責任の21世紀日本社会である。自分の人生について--というとやや大げさだが、自分のキャリアについて、ちょっとはまじめに考えにゃならんと思ったのが、この記事を書いたきっかけの一つなのかもしれない。ただその結論があいまいなところに落ち着いてしまうのはどうなのかしらん(´・ω・`)

読書メモ: GWに読んだ本

盆暮れ正月そしてGWは日本の社会人a.k.a.社畜にとっては唯一の休息であり、旅行に出かけたり趣味に没頭したりする人も多い中、個人的には実家でひたすらだらだらしながら本を読むと相場が決まっている。以下は自分流GWの過ごし方の中で読んだ本に関する読書メモになります。

木村光彦『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』(中公新書)

戦前日本の朝鮮支配に関する書籍はあまた存在するが、その内容はどうしてもイデオロギッシュになりがちで、本書のように「朝鮮支配を植民地経営としてみたとき、その実態はどのようなものであったかを実証的に検証する」ものは珍しいのではないか? まるでコンピュータのように事実だけを淡々と述べており、非常に好感が持てる。本書の結論は「比較的低コストで朝鮮の治安を維持し、急激な工業化を達成したが、戦時経済によって急激な歪みを生じ、結果として戦後の日朝日韓関係を複雑化する原因になった」というものだが、ここにいたるまで膨大な統計資料と実証研究に言及しており、たいへん納得感のある結論になっていると個人的には感じた。

黒崎真『マーティン・ルーサー・キング --非暴力の闘士』(岩波新書)

"I have a dream"演説で有名なキング牧師の評伝である。公民権運動のリーダーあるいはアイコンで、非暴力と市民的不服従を説いたというのが一般的な理解であるが、その人生や人物像はよく知られていないというのが実態ではないか? 少なくともわたしはそうで、とりわけ晩年のキング牧師ベトナム戦争や貧困問題にもコミットしていたというのが意外に感じられた。黒人差別の闘士というのは彼の一面に過ぎず、非暴力を武器にあらゆる社会的不正義と戦おうとしたのである。ただ本書には運動をシングルイシューにできなかったがゆえの失敗も多く語られており、社会運動の難しさを感じさせられた。

平岡昭利『アホウドリを追った日本人 --一攫千金の夢と南洋進出』(岩波新書)

日本地図を見ると、太平洋や南シナ海に「絶海の孤島」がいくつもあって、そこには少なからず日本人が住んでいる。現代的な都市住民からすると、どう考えても不便でメリットもないような土地であり、なぜそのようなところに日本人が住むようになったのか、むかしから不思議だったのだが、本書によってその謎は氷解した。原因はアホウドリ。この羽毛やはく製あるいはグアノは高額で取引される一方、その採取が簡単かつ元手もかからないとあって、多くの日本人が一攫千金を目指して孤島へ飛び出ていったのである。これを本書はゴールドラッシュにかけて「バードラッシュ」と呼ぶが、そのような事実自体を知らなかったので、たいへん勉強になった。

美川圭『院政 もうひとつの天皇制』(中公新書)

現役の天皇ではなく、現役を退いた天皇が権力をもつ。冷静に考えてみると、院政というのは奇妙なシステムではあるが、ではなぜそのような奇妙なシステムが成立したのか? そしてその奇妙なシステムはどのように運営され、変化し、そして消滅していったのか? 本書はそうした院政の概要がてごろな分量でまとめられている。ひとついえるのは院政の最大の動機は皇統の維持。つまり自らの皇統を確実に次世代の天皇とするため、上皇という立場で皇位決定権を握ってしまうのである。皇位決定権が朝廷から幕府に移ってからは制度として形骸化、近代になると制度自体消えてなくなった--と思いきや、ここにきて今上陛下の退位問題が話題になっており、今改めて読んでおくべき1冊なのかもしれない。

原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社文庫)

本書は筆者が小学生時代に経験した「学級集団づくり」をまとめたものである。「学級集団づくり」とは学校を生徒による民主集中的な自治組織へ変革することを目的とする、当時としては最先端の教育スタイルで、班競争や委員会活動や生徒会活動を重んじる点に特徴があるのだが、筆者にはこれがたいへん息苦しかったらしい。読者も読んでいてかなり息が詰まるし、このような苛烈としか思えない教育がもてはやされていたことに驚きも覚える。ただし筆者もエクスキューズしている通り、これほど純粋な「学級集団づくり」が成立しえたのは往時の滝山団地がきわめて特殊な空間だったからだが、しかしその特殊性を皮肉って「コミューン」としたのかもしれない。

溝口敦『ヤクザ崩壊 半グレ勃興 地殻変動する日本組織犯罪地図』(講談社+α文庫)

市川海老蔵朝青龍といった著名人が次々暴行され、その犯人が関東連合の一味だった--というニュースが世間を騒がせたのは記憶に新しいが、関東連合に代表される半グレ集団に注目が集まりはじめたのがちょうどそのころではなかったか。タイトルのわりに半グレそのものの記述は少なめで、その半グレの勃興が暴力団にどのような影響を与えたのかが本書の中心になっている。初版が2011年、文庫版が2015年のため、本書の内容が2018年の現代にそのまま通用するわけではないが、その当時の雰囲気はよく伝わってくる。また本書は暴力団のマフィア化・反グレ化を予想しているが、2018年の今読んでみると、その予想はおおむね正しいように思われる。

ウィリアム・アイリッシュ『黒いカーテン』(東京創元文庫)

ウィリアム・アイリッシュコーネル・ウールリッチ名義で発表した中編小説である。ウィリアム・アイリッシュといえば『幻の女』の人気が高い、というよりそれぐらいしか翻訳が手に入らないという状態が続いてきたので、新訳でないにしろ作品が手に入るのは喜ばしい。感想としてはアイリッシュらしいサスペンスとでもいうべきか。スピーディーな展開のなか、追い詰められていく主人公。それを手に汗握りながら読んでいると、最後には意外な結末が訪れる。これだけだと優秀な娯楽小説だが、そのなかに何とも言えない寂寞観、寂寥感にあふれており、作品の芸術性を高めているのである。

ここ2-3か月の読書メモ: フィクション

本記事はこれの続きであると勝手に位置付けているのだが、内容的に連続する部分はまったくない。これは持論なのだが、フィクションはこころの余裕がないと楽しめないものと考えている。つらつらと述べられる事実をひたすら頭にしまいこんでいくノンフィクションに比べると、フィクションは読者の心のなかで組み立てなければならない部分が多い。IKEAの家具を組み立てるのにある程度のスペースが必要であるように、フィクションの「組み立て」には心の余裕が必要だということである。

SIerのSEという現代の3K職場にいると、長時間労働や対顧客対応やスパゲッティコードのせいで、心の余裕が削られがちである。とはいえ精神的に楽になるときもあって、そういう場合には小説を楽しむだけの気持ちの余裕が生まれる。以下はその余裕があるときに読んだフィクション作品の読書メモである。

ロス・マクドナルド『動く標的』(創元推理文庫)

ロス・マクドナルドが生み出した私立探偵リュウ・アーチャーのデビュー作。アーチャーものは晩年の『さむけ』『ウィチャリー家の女』あたりの評価が高く、初期の作品はなかなか手に入らない状態が続いていたので、これはうれしい。「家庭の悲劇」を巧みに織り込んだハードボイルドでありながら、本格ミステリのテイストもある晩年の作品に比べると、本作はかなり若書きの感が否めないのだが、はつらつと活動するアーチャーの姿はかなり新鮮に感じた。また冒険小説として読むと、本作に軍配が上がる。

オースティン・ライト『ノクターナル・アニマルズ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

20年前に離婚した、小説家志望の元夫から突如送られてきた小説原稿。その内容はというと「妻と娘が惨殺される」というもので、そんなものを送り付けてきた真意を疑いつつも、主人公は小説を読み進めていく--というスリラーともミステリともいいがたい、不思議な小説である。作中作自体がけっこう読ませるつくりになっているのだが、それよりもその作中作を読み進める主人公の心情の変化が気になってくる。そしてラストはその解釈をすべて読者にゆだねるような書きぶりで、独特の読了感が味わえた。

大藪春彦『エアウェイ・ハンター・シリーズ 狼は復讐を誓う 第一部パリ篇』(光文社文庫)

光文社がここ数年力を入れている、エアウェイ・ハンター・シリーズのひとつ。タイトルにある通り、これは2部作の上巻で、下巻は未読というか2018-05-04現在未発売のようである。楽しみ(´・ω・`) 大藪作品は後年に近づくにつれ、主人公が超人化していくのだが、本作はちょうど超人化し始めたころの作品らしく、主人公である西城もなかなかのスーパーマンでありながら、人間らしさを残している。また大藪作品といえばエロとバイオレンスだが、本作はエロ成分が少なめ。これについても「疲れていて女を抱く気になれない」というような記述があって、大藪作品らしからぬ印象をやや受けた。もっとも主要な登場人物をホモセクシュアルにしてしまったがために、女性との情交を書きづらかったのかもしれないが。

平井和正『[新版]ウルフガイ【1】 狼の紋章』『[新版]ウルフガイ【2】 狼の怨歌』(ハヤカワ文庫JA)

ウルフガイ・シリーズというよりはむしろ平井和正という作家に興味があって手に取ったきらいがある。もう単純に面白かったというのが最大の感想である。この手のエンターテイメントというのは時代を経ると陳腐化しがち、というかその作品をうけてより複雑で面白い作品が作られるため、その後年の作品に慣れた身からすると、先発の作品が面白くないということがままあるのだが、本シリーズに限ってはそんなことは全くなかったといってよい。発表当時大ヒットになったというが、それもうなづける。その世界観やキャラクター構成は現代のアニメ・ライトノベルへの影響もあるように感じられる。

麻耶雄嵩『あぶない叔父さん』(新潮文庫)

デビュー以来「問題作」ばかりを世に送り出してきた麻耶雄嵩にしては、ややおとなしめの印象を受ける。彼の作品は本格ミステリという形式自体への問いかけを含んだ、アンチテーゼ的なものが多く、本作にもそのような成分は含まれているが、幾分軽め。ただその「軽く」なった分だけ、純粋なミステリ以外の部分が強化されており、「田舎に住む、何物にもなり切れない男子高校生の煩悶」をテーマとした青春小説として読むと、かなり面白く読めると思う。そもそも麻耶ファンに限らず、ミステリファン全体の傾向として、麻耶雄嵩への期待値が上がりすぎている。その期待値を除いた状態で読むと、本作は十分麻耶らしさに満ちていると思うのですが、どうでしょうか?

佐木隆三『復讐するは我にあり』(文春文庫)

小説、それも第74回直木賞受賞作と聞くと、まったくの虚構・作り話であるか、もしくは実際の出来事をデフォルメしたものを想像しますが、本作の面白いところはほぼノンフィクションであるということ。人物名や地名などはさすがに変更されていますが、それ以外はモデルとなった事件をそのまま描写しただけ。これを"小説"というのか議論もあるようですが、しかし読んでいて面白いのだから不思議である。「事実は小説より奇なり」という金言もありますが、綿密な取材をもとにして現実の事象を巧みに写し取ることもまた「文学」「小説」という芸術の一形式なのかもしれません。

法月綸太郎『新装版 頼子のために』(講談社文庫)

法月綸太郎は苦悩の作家とでもいうべきか、作中探偵である法月綸太郎が迷い苦しむシーンが頻繁に登場します。これは現実の作家である法月綸太郎の迷いと苦悩を受けてのものであると論じられることが多いのですが、とりわけ本作が発表されたころは作家法月綸太郎の苦悩時代だったらしく、その面影が作品全体に色濃く表れています。法月氏エラリー・クイーンの愛好家で、その作品もクイーンの影響を受けたロジカルなパズラーものが多いのですが、本作に限って言うとパズラー色はかなり後退しており、ハードボイルドものといって過言ではないほどに暗い雰囲気と「家族の悲劇」が前面に押し出されています。当時の法月綸太郎ロス・マクドナルドになりたかったのかしらん?

笹沢左保著、末國善己編集『流れ舟は帰らず 木枯し紋次郎ミステリ傑作選』(創元推理文庫)

笹沢佐保というと大量生産(そして粗製乱造)の流行作家というイメージがあり、これまで何となく読むことを避けてきたのですが、偶然手に取った本作が大当たり。超面白かったのに、なぜ誰もその面白さをわたしに教えてくれないのか(八つ当たり)。まずもって短編ミステリとして質が高い。本格ミステリやパズラーの文脈から読むと文句もつけたくなるが、意外性のあるプロットとあざやかな謎解きを短編の分量に凝縮しつつ、さまざまなパターンを用意するというのは並大抵の才能ではない。また木枯らし紋次郎というキャラクターが魅力的である。口数は少なく、剣の腕はたち、どこか陰のある雰囲気を漂わせている。短編小説という縛りの中で、人物造形にこれだけの深みを持たせているのは、やはり只者ではない(2回目)