nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

水谷竹秀『だから、居場所が欲しかった。 --バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社)

コールセンターというと、カスタマーサポートにはなくてはならない存在ではあるものの、労働集約型で特殊な技能が求められず、かつ所在地がどこにあってもよいという特性からBPOの一環としてニアショアリング・オフショアリングの対象になりやすい。日本国内だと、沖縄や北海道などに多く、IT系だと国境をまたいで大連などにコールセンターを設けることもある。とくに外資系ベンダだと、オフショアリングの割合は高まり、カスタマサーポートに電話をかけると、中国人が流ちょうな日本語で対応するということが日常的に行われている。

本書はタイにオフショアリングされたコールセンターで働く人々に関するるポータージュであるが、先ほどの例と違って、働いているのは現地人ではなく、日本人である。わざわざタイのコールセンターで働く人というのはどのような人たちなのか? 基本的には日本社会で生きづらさを抱えている人々である。非正規雇用を転々としたり、家庭環境が悪かったりで、「なじめない日本社会にいるよりはましかもしれない」と心機一転タイへやってくるのだが、在タイ邦人社会にも階層があって、なかでもコールセンターで働く人は最底辺に位置づけられる。物価の安いタイ社会において、日本にいるよりは"豊かな"暮らしを送ることはできるものの、かならずしも"裕福"とはいえない生活の中で、なおもかれらはコールセンターで働き続けている。

サブタイトルには「コールセンター」とあるが、本書はそれ以外も取材を行っている。たとえばタイは売春産業が盛んなことで知られるが、これは男性向けばかりではない。つまり女性が男娼を買うことも一般的であり、日本人女性がゴーゴーボーイ相手に派手に遊びまわる光景も珍しくないという。あるいはタイは同性愛にも寛容な文化であり、その寛容さにひかれて、いわゆるLGBTと呼ばれる人々が遊んだり移住したりすることも多いようだ。

本書を読んで強く感じるのはタイ社会の寛容さであり、その対象として日本社会の不寛容さである。タイに縁にゆかりもない日本人が働けるのは、そもそもタイ社会がそのような異邦人に寛容であるからで、逆にいえば日本社会は同じ日本人でも、レールからはずれたものは遠慮なく弾き飛ばしてしまう。男娼を買う女性もLGBTも同じことで、日本社会の不寛容さとともに、タイ社会のふところの広さを感じざるを得ない。

安田峰俊『八九六四 :「天安門事件」は再び起きるか』(角川書店)

タイトルからもわかる通り、本書のメインテーマは天安門事件で、その当時に天安門事件に何らかのかかわりを持っていた人の生の声を多数記録しているというところに特徴がある。天安門事件というと「民主化という高邁な目標を掲げた、高潔で無抵抗な学生たちを武力に弾圧し虐殺した」というような評価をしがちであるが、本書を読むと、それほど単純には割り切れない、複雑な位相が見えてくる。なかには真剣に民主化をこころざしたものもいたかもしれないが、お祭り騒ぎ的・野次馬的に参加したものもいれば、あるのは反骨精神で、運動のスローガンをなにひとつ理解していないようなものもいたようだ。烏合の衆とまではいわないものの、かならずしも統率された運動ではなかったというのは確かだったらしい。また「学生」といっても、当時の大学生は超がつくほどのエリート。裕福な家の子息も多く「西洋かぶれのぼんぼんが騒いだ結果、親にお仕置きされた」という評価もある一面の真実ではあるのかもしれない。

天安門事件に参加した人間のその後もさまざまで、社会的経済的に成功をおさめたものもいれば、底辺をさまよいつづけているものもいる。ただ「成功」したものほど、天安門事件共産党側の対応を肯定的に見る向きが多いのは、意外ではあるものの、納得せざるを得なかった。つまり「あのとき民主化を拒んだからこそ、いまの中国の経済成長があるのだ」という理屈である。

民主主義を奉ずる西欧諸国(+日本)が経済的に行き詰まりを見せるなか、成長を見せているのは中国・ベトナムラオスなどの共産主義国(=共産党による一党独裁)、軍事政権が支配するミャンマーやアフリカ諸国、そして政教一致を是とするイスラム諸国で、そのいずれも西洋近代的な価値観を拒否している国ばかりである。またエジプトを中心とした中東諸国の民主化運動が「アラブの春」「ジャスミン革命」などといって、一時期えらくもてはやされたが、時間がたってみればその多くが失敗し、無用な混乱を招いただけであった。

一応は民主主義である日本社会に育ったわたしですら、このような事実を見ていると「民主主義のもとで飢えて死ぬよりは、人権を引き換えに豊かな生活を送るのも悪くない」と思いがちではある。ここ20-30年の、史上まれにみる経済成長を肌で感じた人にとっては「天安門事件を弾圧して正解だった」というのはかなりのリアリティを持つに違いない。

本書に深みを持たせているのは、いわゆる雨傘運動の当事者にも取材していることだろう。雨傘運動の当事者たちは天安門事件に直接関与してはいないものの、「同じ学生が民主化を求めてデモをする」という点では似通った性質を持っている。そのかれらが天安門事件をどのように評価しているのか? その生の声が天安門事件に対する別の切り口が提示しているし、またそこから香港と北京の間にある、地理的歴史的経済的にアンビバレントな関係性も見えている。

明確に示されることはないものの、全体を通して筆者の苦労とその取材力の高さが伝わってくる1冊である。素材やアプローチもそうだが、本書に単なるインタビュー集・記録集以上の価値を持たせているのは、ひとえに筆者の取材の力量であろう。ひとりの読書人として興味深く読んだし、おそらく学術的にも価値があるもののと思われる。

キャリアについて少しだけ考える

プロジェクトが火を噴きまくっていて、それを収めるのに2-3か月かかり、ようやく人間らしい生活を取り戻したと思ったらもう5月も終わりである。第1四半期の終わりも見えてきた段階で、マネージャとの面談がセッティングされてしまった。自分の年次的にいって、キャリアの話を求められると思われる。

各人に好みの方法はあると思うが、わたし個人は自分の思考を整理するうえでは文章にすることが多い。他人に読んでもらう体で文章を書いているうちに、自分の考えがはっきりまとまってくる。矛盾や堂々巡りを発見しやすいし、読み返す中で新しい発見をすることもある。たまには意外な結論に文章が向かうこともあるが、それも悪くない。文字に起こす時間がかかるが、必要なコストと割り切るほかないだろう。


わたしはいわゆるSIerに勤務するシステムエンジニアで、年次的にはぎりぎり若手。自称新人といいかえてもいい。SIerといっても規模は大小あるが、わたしの勤務先は非上場だが、比較的大きいほうである。プロパーの立場に立つことが多い(90%ぐらい)が、売り上げや利益的には中堅規模だと思う。まあ典型的な大手SIerといってよいだろう。

さて弊社ではいわゆるシステムエンジニアというのは見習い・前座的なロールと考えられていて、ある程度年次を経ると次の3つのロールを目指すことが求められる。

  1. コンサルタント
  2. プロジェクトマネージャ
  3. ITアーキテクト

コンサルタントというと、戦略コンサルや人事コンサルを思い浮かべがちであるが、ここはSIer。要はITコンサルであり、ITプロジェクトの超上流、たとえばRFPを書いたり、要件をまとめるべくヒアリングを行ったりが主業務となる。

次にプロジェクトマネージャ。これはいうまでもないだろうが、「管理」を生業にするロールである。たとえば人的リソースをやりくりしたり、QCDを調整したり。PJTを成功させるも炎上させるもかれらの腕次第であり、責任は重大であるが、その分やりがいも大きいらしく、SIer(というか弊社)では花形のロールである。

最後にITアーキテクトだが、個人的にはこれがもっとも謎。ほとんどコンサルタントのように走り回っているものもいれば、ひがなDBのチューニングをしている人もいる。「ITの専門家」というようなあだ名(?)を付けられがちであるが、まったくコードがかけず、一日中Excelとにらめっこしている「ITアーキテクト」も少なくない。コンサルタントやプロジェクトマネージャよりは「技術」的なことをするひとをひっくるめているだけともいえる。

自分がなるとすればITアーキテクトだろうか? ただし消去法ではある。コンサルタントは論外。これは技術的な仕事で日銭を稼ぎたいという個人の希望もあるが、個人的な経験としてコンサルに好印象がない。多くは語らない、というか語りだすと1日2日では終わらないが、ひとつつだけ述べておく。やつらは余計な仕事を増やすだけである。

技術に明るい、あるいは関心があるプロジェクトマネージャというのもいいかもしれないが、そうはいっても弊社は大企業。要は金額的に大きいプロジェクトが多く、そのようなプロジェクトではプロジェクトマネージャは種々の「管理」で手いっぱいで、とても「技術」に関与している場合ではない。あとは個人的な志向として、ソフトウェアプロセスや要求工学のようなプロジェクトマネージャらしいジャンルに関心がないという点でも、不向きであろう。

となるとITアーキテクトが残るが、あまり気が向かないというのが正直なところ。なかでも気に食わないのが、彼らがよく使う「支援」という単語。ITアーキテクトのプロフィールを読んでいると「DBWの支援」「アプリケーション設計の支援」のように「支援」という単語がよくあらわれるのだが、わたしは別に「支援」をしたいわけではない。「支援」という発言の裏に「おいしいとこどり」というニュアンスが感じられ、普段から「おいし いとこどり」ばかりしている人は、つらい時にすぐ逃げ出すのでは?(本当につらいときに逃げ出すのはかまわないが……)

また大手SIの常として、年次が上がるとコーディングから遠ざかりがち。プログラミングが面白いと思ってIT業界にやってきた(流れ着いた?)身としては、技術に近い立場とは言え、プロダクションレベルのコードが書けなくなるのはたいへんつらい。事実ITアーキテクトでありながら、FizzBuzzすらかけないという人は現実にいて、そんな人でもなりたつ「ITの専門家」って何だろうかと思わなくはない。


技術的なロールについたとして、では何を専門として生きていくのかという問題もある。よく「アプリかインフラか」といういいかたがなされるが、話はそれほど単純ではない。アプリだといわゆるサーバサイドがもっとも人口が多いと思うが、最近はフロントエンドの需要も高い。個人的な観測範囲だとAngularJSの案件が多く、経験者はひっぱりだこと聞く(Reactは少ない--なぜ?)。またアプリはアプリでもスマホアプリはサーバサイドやフロントエンドとは別次元のスキルが求められる世界である。

インフラにしても細分化されており、仮にサーバひとつとってみてもメインフレームにホスト、WindowsAIXLinux。ひとくちにLinuxといってもUbuntuやらRedhatやらCentOSやらと種類はさまざまある。最近はクラウドがさかんだが、これはいわゆるオンプレとは別の知識が必要らしい。ほかにもネットワークやハードウェアの構築や保守もインフラといえるし、また絶対数は少ないがDBAもインフラエンジニアといってよいかもしれない。

弊社のようなロートルSIerでも自動化をちらほら聞くようになってきたが、これはアプリ分野でもインフラ分野でもある。VMWareのような仮想化、Dockerに代表されるコンテナ技術はインフラかしら。セキュリティエンジニアというのもいるが、これはアプリともインフラとも言い難い独自のジャンルである。先鋭的な企業だとSREにとりくむところも増えてきているが、これはインフラやアプリという垣根はおろか、DevやOpsまで横断するような役割らしい。最近流行しているのがデータサイエンティスト。弊社でも専門の組織ができたとか作るとか、うわさは聞こえてくるが、これはインフラとかアプリとかの前に高度な数学や統計学や物理学の知識が必要になるようだ。

いろいろなジャンルを書いてみたが、自分が携わったなかで何が楽しかったのかを振り返ってみると、まずはプログラミング。Webアプリよりはバッチのほうが好きです。あとはLinuxとそこにインストールされたミドルウェアをさわっているとき。CUIでコマンドをぺちぺちたたくのが無上の喜びである。あとはちょっとしか携わったことはないが、DBAは楽しくやった記憶がある。SQLチューニングやバックアップ管理は地味だが、なかなかやりがいがあったように思う。

--というと、サーバ管理系を志向するのがよいのかしらん。ただし、いまや銀行の勘定系をクラウド化するご時世である。コンテナ技術やインフラ構成の自動化もあって、サーバ管理者の需要は間違いなく減っていく。仮想化や自動化に強ければ生き残っていけるかもしれないが、ただ世の中には「一日中playbookを書いていてもまだ足りない」「美しいDockfileを書くことに生活のすべてをささげている」という狂人が多数いて、それに太刀打ちできるかといわれると、黙らざるを得ない。

DBAもありかもしれない。サーバ管理系よりは息は長そう。またアプリ、というかプログラミングのスキルも生かせそうではある。ただ、日本だとDBAの需要は少ないのがネック。保守運用のおまけ程度にいるのはまだよいほうで、DBA的ポジションが全くいないプロジェクトというのも珍しくない。

需要と将来性を考えると、サーバサイドが一番望みは高いのだが、スパゲッティコードとはもう戦いたくないでござる( ノД`)シクシク…


正直なところ、技術的なことをやっていれば幸せというたちで、多少ひどい環境でもプログラミングやサーバ作業ができれば十分満足。キャリアやスペシャリティといった「難しい」ことはあまり真剣に考えてこなかったのだが、そうもいっていられない時期が近付いてきたのかもしれない。ただ「いろいろやらされているうちに、何か面白いこと・得意なことが見つかるかもしれない」と思う自分もいて、なかなか自分の人生の道筋をつけられないでいる。

自分のキャリアは会社が用意してくれるわけではなく、自分で切り開くほかない。よくいえば楽観的だが、実際は流されているだけ。これはまずい。終身雇用制が当たり前の高度経済成長期ならまだしも、わたしが生きているのは新自由主義と自己責任の21世紀日本社会である。自分の人生について--というとやや大げさだが、自分のキャリアについて、ちょっとはまじめに考えにゃならんと思ったのが、この記事を書いたきっかけの一つなのかもしれない。ただその結論があいまいなところに落ち着いてしまうのはどうなのかしらん(´・ω・`)

読書メモ: GWに読んだ本

盆暮れ正月そしてGWは日本の社会人a.k.a.社畜にとっては唯一の休息であり、旅行に出かけたり趣味に没頭したりする人も多い中、個人的には実家でひたすらだらだらしながら本を読むと相場が決まっている。以下は自分流GWの過ごし方の中で読んだ本に関する読書メモになります。

木村光彦『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』(中公新書)

戦前日本の朝鮮支配に関する書籍はあまた存在するが、その内容はどうしてもイデオロギッシュになりがちで、本書のように「朝鮮支配を植民地経営としてみたとき、その実態はどのようなものであったかを実証的に検証する」ものは珍しいのではないか? まるでコンピュータのように事実だけを淡々と述べており、非常に好感が持てる。本書の結論は「比較的低コストで朝鮮の治安を維持し、急激な工業化を達成したが、戦時経済によって急激な歪みを生じ、結果として戦後の日朝日韓関係を複雑化する原因になった」というものだが、ここにいたるまで膨大な統計資料と実証研究に言及しており、たいへん納得感のある結論になっていると個人的には感じた。

黒崎真『マーティン・ルーサー・キング --非暴力の闘士』(岩波新書)

"I have a dream"演説で有名なキング牧師の評伝である。公民権運動のリーダーあるいはアイコンで、非暴力と市民的不服従を説いたというのが一般的な理解であるが、その人生や人物像はよく知られていないというのが実態ではないか? 少なくともわたしはそうで、とりわけ晩年のキング牧師ベトナム戦争や貧困問題にもコミットしていたというのが意外に感じられた。黒人差別の闘士というのは彼の一面に過ぎず、非暴力を武器にあらゆる社会的不正義と戦おうとしたのである。ただ本書には運動をシングルイシューにできなかったがゆえの失敗も多く語られており、社会運動の難しさを感じさせられた。

平岡昭利『アホウドリを追った日本人 --一攫千金の夢と南洋進出』(岩波新書)

日本地図を見ると、太平洋や南シナ海に「絶海の孤島」がいくつもあって、そこには少なからず日本人が住んでいる。現代的な都市住民からすると、どう考えても不便でメリットもないような土地であり、なぜそのようなところに日本人が住むようになったのか、むかしから不思議だったのだが、本書によってその謎は氷解した。原因はアホウドリ。この羽毛やはく製あるいはグアノは高額で取引される一方、その採取が簡単かつ元手もかからないとあって、多くの日本人が一攫千金を目指して孤島へ飛び出ていったのである。これを本書はゴールドラッシュにかけて「バードラッシュ」と呼ぶが、そのような事実自体を知らなかったので、たいへん勉強になった。

美川圭『院政 もうひとつの天皇制』(中公新書)

現役の天皇ではなく、現役を退いた天皇が権力をもつ。冷静に考えてみると、院政というのは奇妙なシステムではあるが、ではなぜそのような奇妙なシステムが成立したのか? そしてその奇妙なシステムはどのように運営され、変化し、そして消滅していったのか? 本書はそうした院政の概要がてごろな分量でまとめられている。ひとついえるのは院政の最大の動機は皇統の維持。つまり自らの皇統を確実に次世代の天皇とするため、上皇という立場で皇位決定権を握ってしまうのである。皇位決定権が朝廷から幕府に移ってからは制度として形骸化、近代になると制度自体消えてなくなった--と思いきや、ここにきて今上陛下の退位問題が話題になっており、今改めて読んでおくべき1冊なのかもしれない。

原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社文庫)

本書は筆者が小学生時代に経験した「学級集団づくり」をまとめたものである。「学級集団づくり」とは学校を生徒による民主集中的な自治組織へ変革することを目的とする、当時としては最先端の教育スタイルで、班競争や委員会活動や生徒会活動を重んじる点に特徴があるのだが、筆者にはこれがたいへん息苦しかったらしい。読者も読んでいてかなり息が詰まるし、このような苛烈としか思えない教育がもてはやされていたことに驚きも覚える。ただし筆者もエクスキューズしている通り、これほど純粋な「学級集団づくり」が成立しえたのは往時の滝山団地がきわめて特殊な空間だったからだが、しかしその特殊性を皮肉って「コミューン」としたのかもしれない。

溝口敦『ヤクザ崩壊 半グレ勃興 地殻変動する日本組織犯罪地図』(講談社+α文庫)

市川海老蔵朝青龍といった著名人が次々暴行され、その犯人が関東連合の一味だった--というニュースが世間を騒がせたのは記憶に新しいが、関東連合に代表される半グレ集団に注目が集まりはじめたのがちょうどそのころではなかったか。タイトルのわりに半グレそのものの記述は少なめで、その半グレの勃興が暴力団にどのような影響を与えたのかが本書の中心になっている。初版が2011年、文庫版が2015年のため、本書の内容が2018年の現代にそのまま通用するわけではないが、その当時の雰囲気はよく伝わってくる。また本書は暴力団のマフィア化・反グレ化を予想しているが、2018年の今読んでみると、その予想はおおむね正しいように思われる。

ウィリアム・アイリッシュ『黒いカーテン』(東京創元文庫)

ウィリアム・アイリッシュコーネル・ウールリッチ名義で発表した中編小説である。ウィリアム・アイリッシュといえば『幻の女』の人気が高い、というよりそれぐらいしか翻訳が手に入らないという状態が続いてきたので、新訳でないにしろ作品が手に入るのは喜ばしい。感想としてはアイリッシュらしいサスペンスとでもいうべきか。スピーディーな展開のなか、追い詰められていく主人公。それを手に汗握りながら読んでいると、最後には意外な結末が訪れる。これだけだと優秀な娯楽小説だが、そのなかに何とも言えない寂寞観、寂寥感にあふれており、作品の芸術性を高めているのである。

ここ2-3か月の読書メモ: フィクション

本記事はこれの続きであると勝手に位置付けているのだが、内容的に連続する部分はまったくない。これは持論なのだが、フィクションはこころの余裕がないと楽しめないものと考えている。つらつらと述べられる事実をひたすら頭にしまいこんでいくノンフィクションに比べると、フィクションは読者の心のなかで組み立てなければならない部分が多い。IKEAの家具を組み立てるのにある程度のスペースが必要であるように、フィクションの「組み立て」には心の余裕が必要だということである。

SIerのSEという現代の3K職場にいると、長時間労働や対顧客対応やスパゲッティコードのせいで、心の余裕が削られがちである。とはいえ精神的に楽になるときもあって、そういう場合には小説を楽しむだけの気持ちの余裕が生まれる。以下はその余裕があるときに読んだフィクション作品の読書メモである。

ロス・マクドナルド『動く標的』(創元推理文庫)

ロス・マクドナルドが生み出した私立探偵リュウ・アーチャーのデビュー作。アーチャーものは晩年の『さむけ』『ウィチャリー家の女』あたりの評価が高く、初期の作品はなかなか手に入らない状態が続いていたので、これはうれしい。「家庭の悲劇」を巧みに織り込んだハードボイルドでありながら、本格ミステリのテイストもある晩年の作品に比べると、本作はかなり若書きの感が否めないのだが、はつらつと活動するアーチャーの姿はかなり新鮮に感じた。また冒険小説として読むと、本作に軍配が上がる。

オースティン・ライト『ノクターナル・アニマルズ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

20年前に離婚した、小説家志望の元夫から突如送られてきた小説原稿。その内容はというと「妻と娘が惨殺される」というもので、そんなものを送り付けてきた真意を疑いつつも、主人公は小説を読み進めていく--というスリラーともミステリともいいがたい、不思議な小説である。作中作自体がけっこう読ませるつくりになっているのだが、それよりもその作中作を読み進める主人公の心情の変化が気になってくる。そしてラストはその解釈をすべて読者にゆだねるような書きぶりで、独特の読了感が味わえた。

大藪春彦『エアウェイ・ハンター・シリーズ 狼は復讐を誓う 第一部パリ篇』(光文社文庫)

光文社がここ数年力を入れている、エアウェイ・ハンター・シリーズのひとつ。タイトルにある通り、これは2部作の上巻で、下巻は未読というか2018-05-04現在未発売のようである。楽しみ(´・ω・`) 大藪作品は後年に近づくにつれ、主人公が超人化していくのだが、本作はちょうど超人化し始めたころの作品らしく、主人公である西城もなかなかのスーパーマンでありながら、人間らしさを残している。また大藪作品といえばエロとバイオレンスだが、本作はエロ成分が少なめ。これについても「疲れていて女を抱く気になれない」というような記述があって、大藪作品らしからぬ印象をやや受けた。もっとも主要な登場人物をホモセクシュアルにしてしまったがために、女性との情交を書きづらかったのかもしれないが。

平井和正『[新版]ウルフガイ【1】 狼の紋章』『[新版]ウルフガイ【2】 狼の怨歌』(ハヤカワ文庫JA)

ウルフガイ・シリーズというよりはむしろ平井和正という作家に興味があって手に取ったきらいがある。もう単純に面白かったというのが最大の感想である。この手のエンターテイメントというのは時代を経ると陳腐化しがち、というかその作品をうけてより複雑で面白い作品が作られるため、その後年の作品に慣れた身からすると、先発の作品が面白くないということがままあるのだが、本シリーズに限ってはそんなことは全くなかったといってよい。発表当時大ヒットになったというが、それもうなづける。その世界観やキャラクター構成は現代のアニメ・ライトノベルへの影響もあるように感じられる。

麻耶雄嵩『あぶない叔父さん』(新潮文庫)

デビュー以来「問題作」ばかりを世に送り出してきた麻耶雄嵩にしては、ややおとなしめの印象を受ける。彼の作品は本格ミステリという形式自体への問いかけを含んだ、アンチテーゼ的なものが多く、本作にもそのような成分は含まれているが、幾分軽め。ただその「軽く」なった分だけ、純粋なミステリ以外の部分が強化されており、「田舎に住む、何物にもなり切れない男子高校生の煩悶」をテーマとした青春小説として読むと、かなり面白く読めると思う。そもそも麻耶ファンに限らず、ミステリファン全体の傾向として、麻耶雄嵩への期待値が上がりすぎている。その期待値を除いた状態で読むと、本作は十分麻耶らしさに満ちていると思うのですが、どうでしょうか?

佐木隆三『復讐するは我にあり』(文春文庫)

小説、それも第74回直木賞受賞作と聞くと、まったくの虚構・作り話であるか、もしくは実際の出来事をデフォルメしたものを想像しますが、本作の面白いところはほぼノンフィクションであるということ。人物名や地名などはさすがに変更されていますが、それ以外はモデルとなった事件をそのまま描写しただけ。これを"小説"というのか議論もあるようですが、しかし読んでいて面白いのだから不思議である。「事実は小説より奇なり」という金言もありますが、綿密な取材をもとにして現実の事象を巧みに写し取ることもまた「文学」「小説」という芸術の一形式なのかもしれません。

法月綸太郎『新装版 頼子のために』(講談社文庫)

法月綸太郎は苦悩の作家とでもいうべきか、作中探偵である法月綸太郎が迷い苦しむシーンが頻繁に登場します。これは現実の作家である法月綸太郎の迷いと苦悩を受けてのものであると論じられることが多いのですが、とりわけ本作が発表されたころは作家法月綸太郎の苦悩時代だったらしく、その面影が作品全体に色濃く表れています。法月氏エラリー・クイーンの愛好家で、その作品もクイーンの影響を受けたロジカルなパズラーものが多いのですが、本作に限って言うとパズラー色はかなり後退しており、ハードボイルドものといって過言ではないほどに暗い雰囲気と「家族の悲劇」が前面に押し出されています。当時の法月綸太郎ロス・マクドナルドになりたかったのかしらん?

笹沢左保著、末國善己編集『流れ舟は帰らず 木枯し紋次郎ミステリ傑作選』(創元推理文庫)

笹沢佐保というと大量生産(そして粗製乱造)の流行作家というイメージがあり、これまで何となく読むことを避けてきたのですが、偶然手に取った本作が大当たり。超面白かったのに、なぜ誰もその面白さをわたしに教えてくれないのか(八つ当たり)。まずもって短編ミステリとして質が高い。本格ミステリやパズラーの文脈から読むと文句もつけたくなるが、意外性のあるプロットとあざやかな謎解きを短編の分量に凝縮しつつ、さまざまなパターンを用意するというのは並大抵の才能ではない。また木枯らし紋次郎というキャラクターが魅力的である。口数は少なく、剣の腕はたち、どこか陰のある雰囲気を漂わせている。短編小説という縛りの中で、人物造形にこれだけの深みを持たせているのは、やはり只者ではない(2回目)

ここ2-3か月の読書メモ: 新書以外のノンフィクション

実質的にはこれの続きである。社会人になってそこそこ経ち、安月給ながらも自由になるお金が増えたのだが、まだまだ貧乏学生時代の性癖が抜けず、より安価な新書に手を伸ばしがち。ただそのなかでも新書以外の本も一応は読んでいるので、その読書メモをブログ記事として残しておきたい。

森功『許永中 日本の闇を背負い続けた男』(講談社+α文庫)

タイトルの通り、許永中の評伝。いわゆる「イトマン事件」に関心があって手に取ったのだが、それに関する記述は少なめ。事件や出来事ベースではなく、許永中という人物そのものに着目している1冊でした。彼が暗躍したのは高度経済成長期からバブル期にかけてだが、このころは政界-財界-裏社会が独特の関係をなしており、許永中はこれらをうまく取り持ったり、あるいはその威光を借りたりしながら、成功した印象を受けた。

永野健二『バブル 日本迷走の原典』(新潮社)

その当時を日経新聞証券部の記者として過ごした筆者による、バブル時代の回顧録、あるいはエッセイ集と呼んでよいだろう。バブル期に起きたさまざまな事件に対する学術的考察や詳細なレポートを求めていると、それはちょっとお門違いである。読んでみて思うのは、とにかくあの時代はいろいろと「おかしかった」ということ。バブル期にはさまざまな怪人物が現れては、多額の金が絡んだ派手な事件を引き起こすが、それらに関する書物を紐解いてみても、バブル期ニッポンを覆っていた空気や雰囲気はつかみ取れない。筆者のフィルタがかかっているとはいえ、その空気や雰囲気を後世に伝えてくれているというだけでも、本書は出色の出来であるといえるだろう。

樋田毅『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)

赤報隊事件を追いかけ続けている元朝日新聞記者による取材録である。要は犯人捜しをしているのだが、その取材対象は各地で活動する右翼団体からいわゆる「新右翼」そして某韓国系新興宗教にいたるまで広範囲に及んでいる。この宗教団体も反共産主義を掲げて、右翼団体と盛んにかかわりを持っていたことから、要は戦後右翼を対象として取材を行っているのだが、これがなかなか秘密主義的というか、闇が深い(もっとも取材者が朝日新聞というのもよくなかったと思うが)。また取材の過程で右翼と公安警察の結びつきや朝日新聞自体の腐敗も浮かび上がっており、この闇の深さの中でよく取材したと感心する一方、だからこそ「未解決事件」になってしまったのだというふうにも思わなくはない。

ここ2-3か月の読書メモ: 新書編

趣味の読書の中で面白かった本、学びが大きかった本については読書メモをブログに残すことをこころがけているのだが、ここ最近は忙しくて読書メモをさぼりがち。しかし珍しくまとまった休みが取れた(要はGW)ので、ここ2-3か月で読んだ本のうち、とりわけ新書の読書メモを記事化しておきたいと思います。

兵藤裕己『後醍醐天皇』(岩波新書)

鎌倉幕府が倒れた理由として、元寇や分割相続による御家人の疲弊があげられがちであるが、しかしその討幕の中心人物が有力御家人でも貴族でもなく、後醍醐天皇だったのか。本書は多様な観点から後醍醐天皇を読み解いた評伝であり、当時最新鋭の学問であった宋学や仏教などの影響が語られているのが印象に残った。また後醍醐天皇は討幕にあたって、中小貴族や悪党などの非御家人層をとりこんだわけだが、ではなぜそうした層を取り込むことができたのか。個人的にはあまり着目してこなかった観点に対して、合理的な説明が述べられており、勉強になることだらけだった。ちなみに本書によると、後醍醐天皇に仕えた怪僧文観を真言宗立川流の祖とするのは俗説だそうです。残念(←何が)。

川端裕人著、海部陽介監修『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(ブルーバックス)

人類の進化というと、直線的な進化イメージを抱きがちである。つまり時間を経るにしたがって、猿人が原人に、原人が旧人に、そして旧人が新人になり、その進化にともなって人類の生活領域もアフリカから地球全土に広がっていったというイメージだが、本書によるとこのような単純な見方は間違っており、実際にはさまざまな種類の猿人や原人が世界各地におり、それがホモ・サピエンスに統合されていったというのが正しいらしい。本書はその1例として、ジャワ原人をめぐる最新の研究動向を紹介している。

倉本一宏『藤原氏 --権力中枢の一族』(中公新書)

日本史の勉強をしていると、とりわけ大化の改新から平安時代にかけて、いやというほどその名前を見かける藤原氏。また摂関政治以後も「コップの中の嵐」ではあるものの、朝廷内の権力を握り続けたのだが、それにしても藤原氏はなぜそこまで偉かったのか? 本書によれば、その生存戦略は時代によって変化するものの、基本的には天皇のミウチでありながら、皇位継承競争からは外れるという独特のポジションをキープし続けたことにある。天皇からしてみれば、親戚でありながら皇位を簒奪しないということで信頼がおけるし、藤原氏にとっても「ミウチ」という単なる貴族よりも上の立場で政治へ関与できるため、メリットが大きい。あと氏内で権力闘争をすればよいだけなので、藤原氏は大変賢い一族であったということが分かる。

田中一郎『ガリレオ裁判 --400年後の真実』(岩波新書)

ガリレオ裁判というと、無知蒙昧で前時代的なカトリック教会が一方的に科学者ガリレオを断罪したというような、いわばガリレオ英雄史観が語られがちであるが、本書によると話はそれほど単純なものでもないらしい。当のガリレオ自体がカトリックであった、つまり反キリスト教無神論の立場から教会の鼻を明かすというような意思はなかったし、対する教会側も当時としては正当な手続きのもと宗教裁判を行っている。少なくとも、教会がガリレオを狙い撃ちで不当に弾圧し、その弾圧に対してガリレオは科学の優位性を楯に勇敢に闘ったというようなことはなかったらしい。ちなみに本書によると、ガリレオの有名な文句「それでも地球は動いている」は後世の創作だそうです(´・ω・`)

片山杜秀『[シリーズ]企業トップが学ぶリベラルアーツ 「五箇条の誓文」で解く日本史』(NHK出版新書)

「日本の近代(明治-敗戦)とは何であったか」についてはさまざまな見解・研究が発表されているが、本書のようにその原点を五箇条の御誓文に求めたものは珍しいと思われる。いわれてみると、明治維新に始まる日本の近代化は五箇条の御誓文の実現過程であり、その結果生み出された権力構造、つまり「さまざまな権力機構が天皇を中心に緩く結びつき、それらを統率できるものがいない」という権力構造が悲惨な大戦をもたらしたという結論は腑に落ちやすい。ビジネス向けの軽い新書という体だが、そのわりには面白く、新しい考え方も見えて、たいへん勉強になった。

高口康太『現代中国経営者列伝』(星海社新書)

昨今は中国から世界的大企業が生まれつつある。本書はタイトルの通り、いくつかの中華系大企業の創業者の評伝集であり、まずは難しいことは抜きにして、読み物として面白い。紹介される人物がそれぞれ個性的でかつパワフル。彼らが失敗や挫折を経験しつつも、巨万の富を築き上げていくのだから、読んでいておもしろくないわけがない。やはり成功譚というのは読んでいて気持ちがよいのだが、その一方で本書から学ぶことも多い。「巨大な内需を抱えているがゆえに、中国でNo.1になるだけでも、世界有数の規模になりあがれてしまう」「建前上は共産主義のため、官民一体となった経済成長が可能」「不合理をきらい、投資欲が高いなど、ビジネス向きの国民性がある」などが個人的には印象に残った。バブルといえばその通りだが、このグローバル化の時代、一国のバブルが世界を飲み込んでしまう可能性も十分ありうるのである。

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス ――政治と宗教のいま』(岩波新書)

不勉強を告白しておくと、本書を読むまで"ライシテ"ということばすら知りませんでした……。"ライシテ"とは「公共の場に宗教を持ち込むべからず」という、ある種の宗教的政治的中立性のことで、カトリックと結びついた王権が人民を弾圧した過去/建国神話を持つフランスらしい概念ではある。さてフランスで重視されるこのライシテだが、近年イスラム教との関係のなかで揺らぎを見せつつあり、本書はいくつかの事例を取り上げながら、現代フランスにおけるライシテの複雑さを解き明かそうとしている。公教育でのスカーフ禁止など、日本人の感覚からすると腑に落ちない現象が理解できる1冊である。聖俗一致のイスラム教と聖俗分離のライシテの食い合わせが悪いことはいわずもがな、しかしカトリックの影響のもと「完全な分離」が実施できているわけでもないというところに、話の複雑性があると感じられた。