nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

GitHubに草を生やしまくるスクリプト

現在絶賛転職活動中で、SIerからWeb系への転向も視野に入れているのですが、Web系ではGitHubの内容、なかでも通称"草"と呼ばれるcontribution履歴が重視されるようです。ということは--スクリプトなどでGitHubに草を生やしまくれば、あたかもスーパーハッカーであるかのように偽装でき、いろいろな企業から引く手あまたなのでは??? (← そんなことはありません)

というわけで「GitHubに草をはやしまくるシェルスクリプト」を書いてみました。要件としては以下の通りです。

  • 実行するとfake-projectというプロジェクトが作成され、2017-01-01から2018-12-31までの2年間、そのプロジェクトに毎日コミットしたかのように見せかける。
  • コミット回数は1日1回から5回まで。ただし単純なランダムではなく、コミット回数が多い日ほど少なく、逆にコミット回数が少ない日ほど多くする。
    • 単純な一様分布ではなく、大きい数字ほど出づらくするような傾斜をかけるイメージ
  • コミットメッセージはコミット日付をそのまま使いまわす。
    • 有名なOSSプロジェクトから拾ってきたメッセージをもとに機械学習でそれらしいメッセージを作る--というのは考えたのですが、そこまでの技術力はありませんでした(´・ω・`)

以上をみたすシェルスクリプトfake.shは以下の通りです。

#!/bin/bash

mkdir fake-project
cd fake-project
git init

start="2017-01-01"
seq 0 $(( ($(date -d "${start}+2years" +%s) - $(date -d ${start} +%s)) / (60*60*24) )) | while read day; do
  seq 1 $(seq 5 | tac | awk '{for(i=0;i<NR;i++) print $0}' | shuf | head -n 1) | while read hour; do
    timestamp="$(date -R -d ${start}+${day}days+${hour}hours)"
    date -d ${start}+${day}days+${hour}hours
    echo ${timestamp} >> fakefile
    git add -A
    git commit -m "${timestamp}"
    git commit --amend --date="${timestamp}" -m "${timestamp}"
  done
done

簡単な技術解説:

  • dateコマンドはGNU版を利用しています。
  • GitHubの草はGitのAuthor Dateを見ているようなので、git commit --amend --date=timestampで直前のコミットを偽装しています。
  • 傾斜のかかった乱数ですが、まず注目すべきはseq 5 | tac | awk '{for(i=0;i<NR;i++) print $0}'。この一連のコマンドは1を5個、2を4個、… 5を1個、それぞれ標準出力に出力します。あとはこの出力をshufでシャッフルしているわけですね。

さてfake.shを実行後(完了までは数分かかります)、カレントディレクトリに作成されたfake-projectGitHub上に作成したレポジトリにpushすると、偽装は完了。偽装前の2017年と2018年の"草"の状態は以下のようにたいへんみすぼらしいものでした。

f:id:nekoTheShadow:20180920232842p:plain f:id:nekoTheShadow:20180920232811p:plain

それがなんということでしょう! fake.shにより作成したプロジェクトをGitHubにpushするだけで、あっというまにスーパーハッカー風の草原ができあがったではありませんか!!! これで君もスーパーハッカ―だ!!! (← 違います)

f:id:nekoTheShadow:20180920233138p:plain f:id:nekoTheShadow:20180920233140p:plain


作成したプロジェクト、ならびにfake.shは以下のリンクに設置しています。御笑覧ください(´・ω・`)

github.com

ここ数か月で読んだ本に関する読書メモ

自分の趣味は読書で、読んだ本については簡単な読書メモを残し、とりわけ面白かった本についてはブログに掲載しているのだが、ここ数か月は高負荷のストレスがかかる仕事がつづいており、ブログ執筆が怠りがちでした(ブログはたいてい休日に書いているのだが、その休日はついつい寝て過ごしてしまう)。そんなつらい状況でも読書と読書メモは続けていたので、面白かったり印象に残っている本について、そのメモを世間様にさらしたいと思います(´・ω・`)


沈才彬『中国新興企業の正体』(角川新書)

中国新興企業の正体 (角川新書)

中国新興企業の正体 (角川新書)

以前に『現代中国経営者列伝』という本を読んだのが、本書も同種の本で、成長中の中国企業が紹介されている。『現代中国経営者列伝』は企業そのものより企業のトップに焦点を当てていたが、本書は企業そのものの紹介が多く、また中国でしかサービスを展開していない企業も取り上げられている。「そうした企業がなぜ伸びているのか」という分析にまで踏み込んでいる本ではないので、読み物として読むと面白いと思う。

小山聡子『浄土真宗とは何か: 親鸞の教えとその系譜 』(中公新書)

タイトルを見ると、まるで浄土真宗全般について扱っているように思えるが、実際は浄土真宗の宗祖である親鸞に関する議論が中心。浄土真宗というと、他力本願の思想や加持祈祷の否定などが知られるが、では親鸞はそうした考えを徹頭徹尾、厳格に実践することができたのだろうか? 本書によれば、それは否で、親鸞もひとりのにんげんでしかなかった--というといいすぎであるが、少なくとも親鸞が生きた当時の風潮からは逃げきれなかったということがよくわかるのである。

鈴木透『スポーツ国家アメリカ: 民主主義と巨大ビジネスのはざまで』(中公新書)

スポーツという観点からアメリカはどのように見えるのか、あるいはアメリカの政治や文化がスポーツにどのような影響をあたえているのか、という話題について、いくつかの雑多なテーマを紹介している。とくにアメリカにおける女性とスポーツについて扱った章は勉強になった。オムニバス形式で「大学の講義にありそうだな」なんて思いながら読んだのだが、あとがきによると、本書は筆者の大学での講義をベースにしているらしい。

高槻泰郎『大坂堂島米市場: 江戸幕府 vs 市場経済』(講談社現代新書)

江戸時代には「天下の台所」と呼ばれ、そのイメージは現代の大阪=商人の町として色濃く残っているわけだが、ではなぜ大坂が「天下の台所」と呼ばれたのかというと、本書が扱う堂島の米市場があったからである。詳しい内容はさておき、当時の大坂に高度に発達した先物市場があり、現代のそれと比べてもそん色がないというのには驚かされる。

古野まほろ『警察手帳』(新潮新書)

警察手帳 (新潮新書)

警察手帳 (新潮新書)

交番勤務のおまわりさんから、キャリア入省の警察官僚、はては警視総監まで、警察官であれば必ず持っているのが警察手帳であるが、その警察手帳をタイトルに関した本書は警察官の日常について、軽い読み物調にまとめている。正義の番人、法の執行官である警察官も皮をむいてみれば、ひとりのサラリーマンに過ぎない。サラリーマンとしての警察官の日常を知るには面白い1冊だといえよう。

広中一成『牟田口廉也: 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)

牟田口廉也といえば、日本陸軍きっての愚将であり、なかでも無謀かつ杜撰なインパール作戦を立案、その指揮を執った結果、多くの人命をうしなったことでよく知られている。本書はその牟田口廉也の評伝で、色眼鏡で見がちな牟田口の生涯を冷静に描こうとしている。個人的に意外だったのは、彼が実践経験豊富な現場型の将官で、盧溝橋事件では現地指揮官として戦線拡大を行い、、マレー戦線ではいくつもの勝利をおさめ、マスコミからは常勝将軍としてもてはやされていたこと。インパール作戦のような無謀な作戦をやるぐらいだから、現場なんて見たこともない官僚型の人間だと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

本書はインパール作戦の失敗を牟田口の個人的資質を第一に見ている。要するにそれだけの作戦を指揮立案するだけの器ではなかったということだ。しかし無能な牟田口をそれだけの地位に押し込んだのは日本陸軍であり、牟田口は与えられた職責をまじめにこなしただけということもできる。またインパール作戦の実行にあっては、予定段階から無謀とわかっていたということもあり、多くの参謀が自らの責任に及ばないよう立ち振る舞っている。インパール作戦は確かに牟田口の資質が問題だったわけだが、その背景には日本陸軍の組織や人事に問題があったということがよくわかる。

森本あんり『異端の時代: 正統のかたちをもとめて』(岩波新書)

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)

丸山眞男・初期教会・アメリカ合衆国建国をベースとして、そもそも異端とは何か・正統とは何かというところから議論がはじまるのだが、個人的に関心をもって読んだのがこの部分。まずみんなが正しいと思っていることがあり、この「みんなが正しいと思っていること」を囲む線が引かれて、その内側にあるのが正統、外側にあるのが異端になるというのである。まず線が引かれて、正統と異端が人工的に決められるという類の議論を耳にするが、歴史的にはそれは間違っている。正統が正統としていられるのは、結局はみんなが支持するからであり、みんなが支持するのは正統のほうが異端に比べると、よくもわるくも不真面目でゆるふわだからである。

本書の議論によれば、異端とはまじめで寛容ではなく、自ら意思をもって選び取る必要がある存在なのだという。さて現代社会は自ら選択することが求められる時代である。マックス・ウェーバーは脱魔術化の時代といったが、科学技術や自由主義の発展にともなって、自らの選択できる余地が増えつつある。そうしたみなが選択を行う社会はすなわち、総異端社会の到来であり、言い換えれば正統が失われた社会だといえる。

堀川恵子『教誨師』(講談社文庫)

教誨師 (講談社文庫)

教誨師 (講談社文庫)

宗教の視点から受刑者に反省と償いを促すことを教誨といい、それに携わる宗教家を教誨師という。本書は教誨師の中でも、確定死刑囚に対する教誨に長年携わった浄土真宗の僧侶が残したインタビューと日記に基づく記録である。読んでいて楽しい、心躍るというタイプの本ではないが、他社の生命を奪い、その代償として生命を奪われる人間に更生を促す難しさと奥深さを考えてしまう。

団鬼六真剣師 小池重明』(幻冬舎アウトロー文庫)

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

真剣師とは賭け将棋で生計を立てる職業であり、本書は「新宿の殺し屋」という異名をとった伝説の真剣師である小池重明の記録である。小池はプロ顔負け、というかプロさえ打ち負かす実力を持ちながら、飲む・買う・打つにはまったくだらしない。無頼派・破滅型の天才の生きざまには、なんともいない哀愁がただよっており、きわめてよくできた文学なのである。事実は小説より奇なりとはよく言ったものである。

山本譲司累犯障害者』(新潮文庫)

累犯障害者 (新潮文庫)

累犯障害者 (新潮文庫)

刑務所がどこにも行き場がない社会的弱者の受け入れ先になっている、ということは最近になってよく指摘されているが、本書は弱者のうちでも障害者がテーマである。福祉につながっていればよいが、そうではない場合、微罪を繰り返し、刑務所に何度も入ることで生き残るほかない。刑務所が最後のセーフティーネットなのだが、個人的に衝撃だったのは、警察や検察や裁判所はそうした実態を漠然と把握しており、障害者をやむなく受刑させていることが多々あるということだ。

小谷野敦江藤淳大江健三郎』(ちくま文庫)

大江健三郎といえばノーベル文学賞を受賞した小説家である一方、戦後民主主義派の朝日岩波系文化人として、現在でも言論界に強い影響力を有している。対して江藤淳保守系の文芸評論家として活動、その思想は現代の保守系文化人にも影響を与えている。本書はそうした思想的には対極にあるふたりの文学者のダブル評伝で、面白いのは筆者が「江藤は死ぬほどきらいだが、大江のことは尊敬してやまない(ただし思想は除く)」という態度を貫いていること。そんなに「江藤のことを嫌わなくても」と思いつつ、そうしたバイアスを除いても、江藤が俗物根性の持ち主であったことがよくわかる。

本田靖春『誘拐』(ちくま文庫)

誘拐 (ちくま文庫)

誘拐 (ちくま文庫)

いわゆる「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の顛末を描いたドキュメンタリー。この事件は"落としの八兵衛"こと平塚八兵衛の活躍にスポットライトがあてられることが多いのだが、本書は事件の発生から解決までの一連の流れを整理しており、平塚の活躍についても事件の一要素程度にしか扱われていない。細部にいたるまで丹念に取材されているため、読んでいて臨場感を感じる一方、明るい面ばかりが語られる高度経済成長にもある種の暗部や闇があったことにも思いを巡らせてしまった。

中村高寛ヨコハマメリー: かつて白化粧の老娼婦がいた 』(河出書房新社)

かつて横浜には通称"メリーさん"と呼ばれるホームレスがおり、横浜市民のなかでは半ば都市伝説化していたのだという。その"メリーさん"を題材にしたドキュメンタリー映画があるのだが、本書はその映画の監督が書いたもので、"メリーさん"に関する記述が半分、映画撮影時の身辺雑記的記述が半分という内容になっている。映画自体も"メリーさん"本人よりはむしろ"メリーさん"に関係する人の記録というややポストモダンじみた内容だったらしく、"メリーさん"自体や"メリーさん"を生み出した背景などを知りたいという人にはやや肩透かしかもしれない。

神山典士『ペテン師と天才: 佐村河内事件の全貌』(文藝春秋)

ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌

ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌

筆者はいわゆる佐村河内騒動を最初にスクープしたライターで、本書はそのスクープの元になった週刊文春の記事をもとに執筆されたものである。読んでいてわかるのは佐村河内という男が出世欲と虚栄心にまみれた病的な嘘つきであるということ。それに加担した新垣隆の罪も重いが、しかし本書によると、ゴーストライターであっても、自分の作った曲が多くの人に聞いてもらえるという誘惑には勝てなかったのだという。こういう騒動があっても、新垣には才能と能力がある。では佐村河内には何があるのか? それが悲しい本書の結末である。

ゲイ・タリーズ『覗くモーテル観察日誌』(文藝春秋)

覗くモーテル 観察日誌

覗くモーテル 観察日誌

幼いころよりのぞき願望にとらわれた男がモーテル経営者となり、以降30年間の長きにわたって、モーテルの個室を覗き、記録を取り続けた--というにわかには信じがたい事実のドキュメンタリーである。覗き男の興味関心がセックスにあったため、話題はセックス関連に偏っているが、時代によってセックスに対する人々の価値観が変わっていくのは面白い。そうまじめに読まなくても、他人の性行為を覗き見るというインモラルな行為をエンターテイメント的に楽しむのもよいだろう。

本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』(PHP研究所)

教養としての「ローマ史」の読み方

教養としての「ローマ史」の読み方

全体的なテイストとしては、ビジネス教養書といってよいだろう。新書にありがちな、やや通俗寄りの学術書を期待していると失敗する。タイトルにある通り、本書はローマ帝国の誕生から滅亡までを概観するというもので、通史ではない分、詳細な理解にはつながらないが、ローマの歴史を概観で知るぶんにはこれで十分だと思う。まさしく「教養としての」という修飾語がピッタリである。

『忘れられたベストセラー作家』(イースト・プレス)

忘れられたベストセラー作家

忘れられたベストセラー作家

小説をあまり読まない人からすると、あまり理解できない感覚かもしれないが、とくに通俗小説や大衆小説のジャンルにおいては、99%の小説と小説家は年月がたつにつれて読まれなくなっていく。こうした「読まれなくなった」状態をよく「忘れられた」というが、本書はそうした「忘れられた」作家や作品について、やや雑多にまとめたものである。エッセイテイストで読みやすいといこともあり、文学に興味がある人は読んで損にはならないと思う。

呉座勇一『戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか』(新潮選書)

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

タイトルからは中世に行われた個々の戦争の戦術や背景を解説する本かのように思われるが、実際には戦争が中世社会にどのような影響を与えたのかについて、丁寧に議論を進めた1冊である。本書がやり玉に挙げるのは唯物史観マルクス主義といいかえてもいいだろう。戦後の日本史学界は先の大戦の反省もあって、唯物史観に強く染まっており、中世史を見る目を曇らせてきたというのが本書の主張である。とくに「悪党」について扱っている章では「『悪党』という存在が英雄視されるほどのものなのか」「そもそも『悪党』なんていたのか」というところまで踏み込んでおり、その議論の斬新さと緻密さについては、知的好奇心を喚起させられた。

竹中亨『ヴィルヘルム2世: ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」』(中公新書)

本書はヴィルヘルム2世の評伝である。評伝というと、ふつうは筆者の尊敬している人物や好きな人物を対象とする。「尊敬」「好き」はいいすぎにしても、少なくとも興味関心を持っている人物の人生を描くわけであるから、少なからず身びいきが入ってもおかしくないし、ものによっては頭からお尻まで賛美一色という評伝も珍しくない。本書が面白いのはそういう傾向に真っ向から逆らっていること、あけすけにいえば、ヴィルヘルム2世の能力について、ひたすらくさしているのである。

本書が述べているのは、ヴィルヘルム2世が皇帝の資質に欠けていたということである。少なくとも19世紀末から20世紀初頭というヨーロッパ大陸の揺籃期において、ドイツ帝国をサヴァイヴさせるだけの能力はなかったことは確かなようだ。たとえば、ヴィルヘルム2世は王権神授説の信奉者で、「朕は国家なり」を体現すべく、内政や外政に首を突っ込みたがったという。しかし時代は「君臨すれども統治はせず」のイギリス式に傾いており、ヴィルヘルム2世の介入はさほど影響を持たなかった。そうした時代の変化を読み取れず、古い考え方に固執したことも問題であるが、それにもましてヴィルヘルム2世には放言癖があって、その舌禍によって国家に迷惑をかけることもたびたびあったという。またそれ以外にも「あきっぽい性分から書類仕事はおざなり」「ひとつの箇所にいられない性質で、常日頃から旅に出ており、結果として政務をとるような状態ではない」「当人は一端の軍人気取りだが、実際はぼんぼんのおままごと。大雨で軍事訓練を中止しようとした」などなど、ヴィルヘルム2世が皇帝として能力に欠けていたというエピソードが次から次へ登場する。

個人的に意外だったのは、ヴィルヘルム2世が第1次世界大戦に対して消極的であったということ。ヴィルヘルム2世といえば、一般に第1次世界大戦を引き起こした大戦犯とされがちである。本書によれば、これは違う。むしろ戦争を支持したのはドイツ国民のほうで、この当時ドイツは産業革命により急激な経済成長を遂げており、ドイツ国民全体に「いけいけどんどん」の風潮が広がっていたようである。もっともヴィルヘルム2世が戦争に消極的であったということは、彼が平和主義者で博愛主義者であったということを意味しない。ヴィルヘルム2世といえば軍服姿でカイゼルひげを連想する。ヴィルヘルム2世自身もそのようなパブリックイメージを好み、常日頃は勇ましいことを断言的に述べてまわるのだが、いざ大ごとになるとへっぴり腰になるきらいがあって、第1次世界大戦への消極的姿勢もそうした弱腰の延長に過ぎないというのが本書の主張である。

自己顕示欲が強く、傲慢で自信過剰。そのくせ、いざというときには芯がぽきりと折れてしまう。時代錯誤の絶対君主としてふるまおうとするが、衝動的で我慢がきかない性格がゆえに、うまくいかないどころか、国家運営の障害になることすらある--本書はヴィルヘルム2世を明らかに人間性に難がある人物として描いているが、一方でサブタイトルにあるとおり、そのような人物を「国民皇帝」としている。この言葉の持つ意味は大きい。確かにヴィルヘルム2世は問題が多い人物であったが、それは当時のドイツ国家やドイツ国民の写し鏡であったというのが本書の主張なのである。もっともそこまでまじめにならなくても、本書のヴィルヘルム2世のけなしぶりはなかなか面白いので、一読の価値ありと個人的には思います(´・ω・`)

『増補改訂版 Java言語で学ぶデザインパターン入門 マルチスレッド編』を読んだ。

お盆休みというのはシステムエンジニア、もとい社畜にとってはまとまった時間がとれる貴重な機会。プログラマを稼業に据えて以来、まとまった休みには何かしらの習得に務めることが多いのですが、今回のお盆休みはマルチスレッドに目標を定め、自分が業務で使うことが多いJavaのマルチスレッド入門書として名高い、結城浩『増補改訂版 Java言語で学ぶデザインパターン入門 マルチスレッド編』(ソフトバンク・クリエイティブ)をやり通すことにしました。

勉強がてら写経したコードは以下に設置しています。もっとも写経といっても掲載コードを丸写ししたわけではなく、適宜自分なりに書き換えています。また本書は書かれた時期にはなかったJavaの機能などを多用しています(とくにラムダやローカル変数の型推論)。個人的な反省点としては、テストコードを書かなかったということ。「テストがきらい」というよりは、本書の掲載例がテスト・ドリブンを意識したものではなかったので、ついついさぼってしまいました(´・ω・`)

github.com

さてJavaによるマルチスレッド・プログラミングのさわりを学んでみての感想ですが、ロートルで時代遅れというレッテルを張られがちなわりにマルチスレッド関連の機能は充実していると感じました。synchronizednotifyAllのような低レベルのAPIもさることながら、とにかくjava.util.concurrentが便利すぎる。業務アプリケーションの開発であれば、java.util.concurrentで十二分に事足りるでしょう。

ただ本書のよいところは「Javaの便利なAPIを利用してみよう」では終わっていないこと。これは本書がjava.util.concurrentよりも前に書かれたからかもしれませんが、それに頼らないマルチスレッドプログラミングのお作法を1から学ぶことができます。とくにマルチスレッドプログラミングの基本中の基本であるsynchronizednotifyAllあるいはwait`について、なんとなくで理解していたということもあり、あらためて学びなおすことができたのは最大の収穫でした(´・ω・`)

山平重樹『闘いいまだ終わらず: 現代浪華遊侠伝・川口和秀』(幻冬舎アウトロー文庫)

お断り: 本作はいわゆる暴力団の組長を肯定的に描いた作品であり、実録という形をとってはいるものの、その内容がどこまで信用できるかについては議論の余地がある。以下に好意的な書評・感想を述べるが、これは本作の内容をすべて信じているということではない。また本作に肯定的であるからといって、現代の暴力団排除の風潮に反対するわけではないし、ましてや暴力団の存在すべてを肯定するということを意味しない。ただし、社会的に排除されるべき暴力団を肯定的に描いているからといって、その作品に価値がないという価値観にはくみしない。要は是々非々である。

2-3年前ほどになるが、『ヤクザと憲法』というドキュメンタリーが話題になったことがある。これは東海テレビのクルーが2代目東組の2次団体2代目清勇会に東海テレビのクルーが100日間密着、その日常生活を撮影するというもので、暴対法や暴排条例がどれほど法の下の平等に反しているか、警察権力や国家権力がやくざや暴力団という存在に対してどれほどまでに横暴にふるまっているのかがよくわかる、とてもよくできたドキュメンタリーだった。さてこの『ヤクザと憲法』の密着先である清勇会の会長であり、ドキュメンタリーでも中心的な役割を果たしていた人物が本書の主人公である。なお本書は読んでいると評伝のように思える(それほど綿密に取材をしている)が、一応は実録小説ということなので、その中心人物は「主人公」ということになる。

本書のタイトルは『闘いいまだ終わらず: 現代浪華遊侠伝・川口和秀』というものだが、これは文庫になった際に改題されたもので、単行本時代は『冤罪・キャッツアイ事件: ヤクザであることが罪だったのか』というタイトルで刊行されていた。いわゆる「キャッツアイ事件」というと暴力団や反社に関心がある人にはよく知られた事件で、昭和60年兵庫県尼崎市のスナック「キャッツアイ」にて、清勇会組員が当時抗争中だった山口組系倉本組組員に対して発砲。倉本組組員は重傷だったが、店内にいた当時19歳のホステスに流れ弾が命中し、運悪く彼女は帰らぬ人となってしまう。その痛ましさから暴対法制定のきっかけとなった事件で、主人公はこれを首謀したとして15年の懲役を余儀なくされてしまう。

しかしこれは冤罪であった。主人公は腎結石持ちで、実行犯2名に犯行を指示したとされる日は入院していたのである。要はアリバイがあるのだが、しかし警察としては末端組員2名を捕まえてもつまらない。そこで実行犯に対する拷問や恐喝に近い取り調べを行って「会長からの指示があった」という供述を引き出して、主人公を無理やり逮捕(なお実行犯と主人公の間にはいさかいがあり、これも実行犯が虚偽の証言をする動機のひとつになっている)。検察は警察とツーカーの中であるから、証拠不十分とわかっていて起訴に持ち込み、裁判所は「相手はやくざだからやったに違いない」と決め込んで、道理の通らない有罪判決を下してしまう。実は公判中に実行犯自ら虚偽の証言をしたことを告白するのだが、裁判所はこれに取り合おうともしない。日本の警察や司法が腐りきっていて、日本社会において法の下の平等というのは美辞麗句に過ぎないことが痛感させられる。

警察や検察や裁判所もさることながら、拘置所や刑務所もなかなかのひどさである。施設の方針や担当者の気分次第で法律上は当然通るべき理屈が通らないというのは序の口。ひどいものだと、受刑者に対する人権侵害や暴力が権力によって握りつぶされてしまう。やってもいない罪で収監され、22年の懲役を過ごす刑務所は無法地帯。再審請求をしても、やくざだからという理由ではねつけられる--絶望的としかいいようがない状態で、なぜ気を確かに生きていられるのかというと、それは筋の通った任侠だからとしかいいようがない。よく「筋の通った極道」といういいかたがなされるが、主人公はまさしくそれである。やくざというと反社会性ばかりが強調され、そしてそれは多くの場合で間違っていないのだが、その義侠心ゆえに曲がったことが許せず、代議士や官吏や知識人が自分たちに都合よく定めた秩序へ反抗し、結果として反社の烙印が下されるという侠客もなかにはいるのかもしれない。

安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館)読了。

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵あるいは絵踏というと「強権的な江戸幕府が無知蒙昧な人民を支配すべく、人民の内心を踏みにじり、思想統制をおこなった」というような語られ方をすることが多い。本書が提示しているのは、そのようなマルクス主義的なイメージとは全く異なる絵踏像--とまではいわないものの、そのようなイメージ先行で論じられがちな絵踏について、実際のところはどのようなものであったかを資料から丁寧に洗い出している。

絵踏というのは江戸幕府の事業で、全国津々浦々もれなく厳格に実施されていた--と個人的に勝手に勘違いしていたのだが、実際のところ、絵踏を行っていたのは会津藩のような例外を除くと、長崎とその周辺の九州の一部地域だけ。また当時江戸幕府の直轄地域だった長崎は別として、絵踏の実施主体は藩であり、藩や地域によって熱意や方法に大きな差があったようである。

本書を読んでいると、藩が本気でキリスト教を取り締まろうとしていたのか、疑問に思えてくる。ほとんどの藩では全領民を対象として、定期的に踏絵を踏ませていたようだが、疫病が流行っている地域はスキップしたり、年貢の早納めをした地域は免除したりという話を見ると、いよいよ怪しくなってくる。また江戸時代には「崩れ」と呼ばれるキリスト教徒の大量検挙事件が数回起きているのだが、江戸時代初期や幕末などを除くと、このほとんどはキリスト教とは無関係として裁かれている。そもそも絵踏は幕府肝いりの事業で、それを熱心に実施しているにも関わらず、キリスト教徒が現れるとなれば、絵踏に意味がないということになり、ひいては幕府の威信にもかかわりかねない。藩側もこれを理解していた節があり、ではなぜ絵踏を行っていたかというと、幕府への恭順をアピールするためというのが本書の結論のひとつである。

当時の長崎は江戸幕府の直轄地域だったことは先に述べたが、その総責任者である長崎奉行にとっても事情は同じで、幕府の禁教政策を滞りなく実施していることを示す格好の材料として、絵踏を実施していたきらいがある。ちなみに絵踏に欠かせない踏絵だが、一部の藩を除くと、長崎奉行の管理下にあったという。つまり絵踏を実施するには、長崎奉行から踏絵を借り出す必要があるわけで、この「借り出す」という行為も幕府に対するロビー活動のひとつであったという。あるいは「貸す」側の長崎奉行にとっても藩に対するプレセンスを高めつつ、「仕事してますよアピール」を幕府に送るうえで絶好の機会であった。

また絵踏というと「厳か」「悲劇」「沈痛」というような修飾がつきまといがちだが、本書を読むと異なる絵踏像が浮かび上がってくる。特徴的なのは長崎で、長崎では松の内に絵踏が行われていたという。現代日本では明治神宮への初詣や箱根駅伝の応援などが正月のニュースになるが、それと同じで、当時の長崎では絵踏もまた正月の年中行事・恒例行事として扱われていた可能性がある。あるいは絵踏会場の近辺に市がたったり、遊女が絵踏に来る日には見物客が押し寄せたりと、「厳か」「悲劇」「沈痛」では語れない絵踏の実態があったことがよくわかる。

もちろん、当時のキリスト教信仰者にとっては絵踏はつらく苦しい、気の重くなるイベントであったことは間違いない。しかしその絵踏があったにも関わらず、隠れキリシタンたちが江戸時代を生き延びていけたのは、絵踏それ自体がさほど苛烈ではなかったということの裏返しでもある。「絵踏さえ乗り切れば、信仰を捨てなくてもよい」という割り切りがキリシタン側にあった可能性だって考えられる。

本書は絵踏が幕藩体制の中でどのような意味を持ち、それを民衆がどのように受容したかが中心であるが、それ以外にも「漂流民に対する絵踏はどのように行われたのか」や「長崎に合法的に滞在する外国人に対して絵踏は行われたのか」といった、絵踏に関してあまり知られていない事実についても簡潔にまとめられている。歴史やキリスト教に関心があるならば、読んで全く損がない1冊だと思われる。

ここ2-3か月の読書メモ。

マリオ・ルチアーノ 『ゴッドファーザーの血』 (双葉社)

ゴッドファーザーの血

ゴッドファーザーの血

『ゴッド・ファーザー』のモデルになった人物の血を引き、みずからもマフィアの一員として世界を飛び回ったあと、日本ではやくざの盃をうけて、いわゆる経済やくざとして活動。現在はイタリアンレストランを経営している--というあらすじだけで、波乱万丈の生涯を送ってきた人物の自叙伝である。ふつうのサラリーマンをしていると、なかなかかかわりあいにならない世界の話のことなので、興味深く読んだ。ちなみに著者がオーナーのレストランだが、以前に食べに行ったことがある(本書を読んだのはこれがきっかけ)。たしか会社の新人歓迎会か何かで、料理はかなりうまかった記憶がある。

一橋文哉『餃子の王将社長射殺事件』(角川書店)

餃子の王将社長射殺事件

餃子の王将社長射殺事件

餃子の王将といえば安くてうまい中華料理レストランチェーンだが、その社長が白昼堂々銃殺され、その殺害方法から暴力団の関与が疑われつつも、犯人がいまだ逮捕されていないというのは世間に衝撃を与え続けている。本書はその餃子の王将社長銃殺事件の背景に迫ったものである。どこまで本当なのかは判断に困るが、日本全国に店舗を構える上場企業がこれだけの問題を抱えている、それも闇の深い問題ばかりというのは、個人的には衝撃だった。

猫組長・西原理恵子『猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言 』(扶桑社)

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

著者は山口組につながる組長という身分でありながらTwitterを開設し、山口組分裂騒動の際には独自情報を矢継ぎ早に公開したことで知られる人物である(現在はかたぎらしい)。やくざのしのぎというと薬物や用心棒や債権回収や違法賭博などを思い浮かべるが、著者は国際金融の世界でしのいできたらしく、本書にはその知見がさまざまに披露されている。とりわけ暴対法の影響で、やくざ社会は経済的に苦しいとされるが、その中でも稼いでいる人は稼いでいるということである。自分の知らない世界、障害かかわらないであろう世界のことであるから、興味深く読んだ。

磯部涼『ルポ 川崎』(サイゾー)

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

川崎市全域というか川崎市川崎区の一部地域について、HIPHOPやそれに近接するジャンルへのインタビューを通して、その実態をあぶりだそうとした1冊である。実をいうとわたしも川崎市民なのだが、本書が扱っている地域にはあまり縁がなく、知らないことだらけだった。「不良文化が煮詰まって、にっちもさっちもいかなくなっている」というのが読み終えての感想で、不良文化に親和性が高いHIP HOPを中心に据えたのは正解だったと思う。

山平重樹『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目石井隆匡の生涯』(幻冬舎アウトロー文庫)

ノンフィクションではなく、限りなく実話に近いフィクションで、稲川会二代目会長がその主人公である。名門の旧制中学を暴力沙汰で退学になったあと、愚連隊・博徒・経済やくざとステップアップしていき、晩年には竹下首相の命運を握るまでにいたる--その波乱万丈の内容が面白いはもちろんのこと、かなり綿密に取材していることが節々にうかがわれる点に好感を抱いた。

鈴木智彦『鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記! 』(宝島社)

鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記!

鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記!

著者は暴力団専門のジャーナリストだが、本書はその専門以外の「激ヤバ地帯」に自ら飛び込んでいった取材録である。「激ヤバ地帯」ルポオムニバスといった具合で、どれを読んでも知らない世界のことばかりだった。この本は日曜の夕方、子供たちが騒ぐ中、サイゼリアで夜ご飯を食べつつ読んでいた記憶があるが、少なくとも食事中に読む内容ではなかったとだけはいっておく。タイトルで判断しろ、といわれればその通りだが(´・ω・`)