nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

田中光二『大いなる逃亡』読了。

大いなる逃亡 (徳間文庫)

大いなる逃亡 (徳間文庫)

 第74回直木三十五賞候補作。なお受賞作は佐木隆三復讐するは我にあり』。こちらはノンフィクションという批判をかわしながらフィクションの章をs受賞した傑作中の傑作なので、本作が直木賞を逃したのも当然というかなんというか。

復讐するは我にあり (文春文庫)

復讐するは我にあり (文春文庫)

 それはさておき。本作はいくつかの文庫やノベルスに収録されているようですが、わたしが読んだのは徳間文庫版。ただし絶版です。というか本作の文庫やノベルスは出版社をとわず軒並み絶版。一応は直木賞の候補作なのに……。時代に並走する大衆文学の無常を感じさせますね――となげいていたところ衝撃の事実が! 「冒険の森へ」という冒険小説の全集が集英社より刊行中で、その第5巻「極限の彼方」に本作の全文が掲載されているようです。

 ははあ。そういう全集があることはさることながら、本作が全集に収録されるほど冒険小説業界で評価されているとは知りませんでした。まあ確かに面白かったですし、直木賞候補になったということで歴史的な価値もあるのかもしれませんね。

 今日2度目の閑話休題。今日は脱線が多いですね。本作の見るべきポイントはその設定。なぜ逃亡するのか、そしてどこまで逃亡すべきなのか。そういった人を冒険に駆り立てる理由が非常にユニークかつ論理的に作りこまれています。たとえばヨーロッパ諸国であれば東西冷戦や旧植民地諸国との緊張関係などがあるので、それを根拠に人を冒険に追いやることは比較的簡単です。しかしひるがえって考えてみると、平和で安全な戦後日本において冒険をせねばならない事情があるかどうか。本作の設定の素晴らしいところはその困難さを乗り越えているところにあります。ここに作者の力量というか想像力の豊かさや実力があらわれていると思います。

 ここまで冒険の理由ばかりをほめてきましたが、その中身、すなわち冒険の過程もなかなか上質です。特にカーチェイスシーン。たとえそれが映像媒体でもカーチェイスを迫力たっぷりに見せるのは難しいと思いますが、文章ならなおさらでしょう。追うものと追われるものの心理状態や関係性、あるいはカーチェイスの理由や起承転結。そういった要素をわかりやすさとスピード感を失わずにかくことは至難の業。下手な作家なら上滑りしかねないテーマです。しかし本作ではそのような悩みは皆無。魅力的なカーチェイスが必然性をもって描かれていました。

ジェイムズ・クラムリー『酔いどれの誇り』読了。

酔いどれの誇り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

酔いどれの誇り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 いわゆるハードボイルドミステリに属する作風ながら、その文学性と芸術性から本国アメリカでは純文学としても高く評価されているジェイムズ・クラムリー。本作はクラムリー作品のなかでもとりわけ評価されている作品です。アメリカにおける事情はちょっと分かりかねるのですが、少なくとも日本においてジェイムズ・クラムリーというと本作があげられる場合が多いように思われます。

 個人的な考えとして、ハードボイルドミステリは大きく分けて次の2種類があると感じています。つまり「文章で読ませるもの」と「ストーリーで読ませるもの」のふたつ。前者の筆頭格はいうまでもなくレイモンド・チャンドラーでしょう。どの批評を見てもプロットにけちが付けられているチャンドラーの作品がハードボイルド文学の古典であり続けているのは、比喩やせりふに対するチャンドラー特有のセンスであることはいうまでもありません。対して後者の代表としてわたしの頭に浮かぶのはダシール・ハメットです。ハメットの乱暴で簡潔な文体も相当に魅力的ではありますが、ハメットが読み継がれている所以はやはりスピード感あふれる物語展開に他ならないと思います

ガラスの鍵 (光文社古典新訳文庫)

ガラスの鍵 (光文社古典新訳文庫)

 さて本作ですが、前者タイプ、すなわち「文章で読ませる」タイプのハードボイルドでした。とにかく文章がすばらしい。正直にいって500ページ以上ある割に話はふつうというか、少なくとも薄いという印象は受けます。しかしそれを差し引いても本作の価値が下がらないのは、ひとえに文章の巧みさにあるはずです。純文学としての評価もあるということで、原著の英語自体がよいものなのでしょう。しかしながらそれを質の高い日本語に訳してしまう翻訳者の腕にもしびれます。名訳といってよいでしょう。訳者は小鷹信光。日本のハードボイルドを語るうえでは絶対に欠かせない翻訳者のひとりです。

近況報告(+愚痴)。

2-3年ほど前だが、カウンセリングにかかっていたことがある。カウンセラーいわく「自律神経失調症」。当時のわたしは特に理由もなく不安になっては胸が苦しくなるほど心拍数が上がったり、脂汗を滝のようにかいたりしており、それは典型的な自律神経失調症の症状だったらしい。その後1年ほど週に1度のカウンセリングに通った結果、精神面は回復、ここ1年ほどはまったくの無事平穏に暮らしてきたのだが――最近になってあのときのような症状が再発しつつあるように感じている。つまり理由もなく不安に陥るのである。もっとも昔のように身体的な症状が出ていないのが救いであるが、しかしいつ再発してもおかしくない。

実のところ「再発」の理由ははっきりしている――大学卒業にかかわるストレスだ。わたしは大学5年生(就職留年している)であり、今年卒業なのだが、「本当に卒業できるのだろうか」という始終とりつかれている。「履修に失敗しているのではないか」「履修を管理するためのWebサイトの表示が誤っているのではないか」「すでに提出した卒業論文がリジェクトされるのではないか」――などなど、悩みというより被害妄想はまったくつきない。

わたしがふつうの4年生であれば、そのような杞憂に精神をすり減らすことはなかっただろう。少なくとももう少し気楽でいられたはずだ。しかしわたしは留年生であり、何があろうとこの3月に卒業せねばならない。単なる留年でも多くの人に迷惑をかけたのだ。これ以上留年はできないし、仮に留年してしまうと学部2留となり社会的な不利益がさすがに大きすぎる――いわば背水の陣にわたしはおり、それが多大なプレッシャーとストレスになっていることは想像に難くない。


ならば時がきて卒業が確定すればストレスから解放されるのだろうか――おそらくそれはない。わたしの杞憂あるいは妄想と原因となっているのは卒業がらみのことが大きいが、就職も要因として大きいことは否定できないからだ。もともとわたしはプログラマもしくはシステムエンジニアを希望して就職活動を行い、そこそこ知名度もある外資SIerから内定をもらったのだが、どうやら希望の職にはつけないということが明らかになりつつある。つまりSE/PG志望のはずが、ふたを開けてみると配属先は技術営業らしいのだ。

技術営業が悪い仕事とは思わない。会社の屋台骨を支えているのはかれらであることは間違いないだろう。しかしそれはわたしが希望する職種ではないのだ。入ろうとしている会社は外資系で知名度があり、給料もそこそこ、研修や福利厚生なども手厚いらしく、新卒カードを切るだけの価値は十分あったというのは今も間違っていないと思う。なにより散々迷惑をかけた両親が喜んでくれているのが、個人的にはとてもうれしい。しかし技術営業という職種に関心がわかないのもまた確かなのだ。面接や人事面談では開発を希望していることを告げたはずだが、どうしてこうなったのか。

新入社員はまるまる1年間研修なのだが、それだけ受けて転職することも考えている。「プログラマ35歳定年説」ということばがあり、時折その賛否が話題になるが、しかし若いうちが華である職業であることは間違いない。少なくとも十人並の自分の能力を考えると、プログラマとして最前線で働けるのは35歳かそこらまでだろう。いまのわたしは23歳。したがって「定年」まで12年間しかない。干支でいえばたった1周である。はっきりいって焦りしかない。

幸運にもこの日本には第2新卒という枠組みがあり、職業あっせん会社も力を入れている領域である。それにIT系はおりからの好景気で売り手市場と聞く。待遇さえ選り好みしなければ、希望するSEやPGとして働くことができるだろう。しかし「あのつらかった就職活動を働きながら続けねばらないのか」と考えると、今から憂鬱な気分になる。また仮に転職するにしても、当面は業務としてのコードを1行も書かない1年間を送らねばならない。長い人生のたった1年と考えれば短いかもしれないが、IT業界の1年は途方もなく長い。長すぎる。Rails8ぐらいになっていてもおかしくない。自分が技術営業として研修を受けている間、世界は何千歩何万歩と進み、自分だけ取り残される――そんなことを考えていると気が狂いそうになる。自律神経失調症もぶり返すわけだ。


もう一度カウンセリングなり精神科なりを受診すべきかしら? 大学にはカウンセリングの窓口があり、行くとすればそこだが、いつも予約でいっぱいなので、もうまもなく卒業する人間がかかるのはかなりしのびない。それに身体に悪影響が出ているわけではなく、日常生活もふつうに行えている(以前は影響ありまくり)ので、大金をはたいて外部のカウンセリングや心療内科にいくのもなあ……。もう少し様子を見て、悪くなるようならそのときにもう一度考えてみます。


昨年12月から糖質制限ダイエットを続けていたのですが――大成功しました! 具体的には2か月で12キロの減量。目標体重を超えましたが、もう少し続けようと思います。といっても今までのように朝昼晩糖質をほぼほぼ摂らないというスタイルではなく、「夜は今まで通り、朝と昼は控えめに」という程度にしておきます。ちょっと緩和するわけですね。「糖質は絶対悪で糖質制限は一生涯続けるべき」というような風潮もあるようですが、「人生それすなわち食べること、好物は麺類と甘いもの」というタイプの人間にはもう無理です(´・ω・`)

ちなみに太っていたからダイエットをしたわけですが、その太った理由は自律神経失調症にあります。いわゆる過食というやつですね(過食嘔吐ではない)。


今年になって始めたPythonですが――超面白いです! 自分にあっているような気がします。今はCheckIOとCodeIQを利用して基本的な文法や命令を手に覚えさせつつ、『エキスパートPythonプログラミング』の学習を進めています。ゆくゆくはオープンソースのコードリーディングをしたいと考えいますが、いつになることやら(´・ω・`)

エキスパートPythonプログラミング

エキスパートPythonプログラミング

麻耶雄嵩『木製の王子』読了。

木製の王子 (講談社ノベルス)

木製の王子 (講談社ノベルス)

 新本格を随一の異能・麻耶雄嵩が2001年に著した長編作品です。講談社ノベルス版と講談社文庫版があるのですが(わたしが読んだのは前者)、残念ながら両方とも絶版。麻耶雄嵩といえばカルト的なマニア熱心な読者が多い印象があったので、世に出て10年強の作品がもう手に入らない状況に結構な衝撃を受けました。改めて現代の出版不況というか、本格推理小説というジャンルに対する風当たりを感じた次第です。

木製の王子 (講談社文庫)

木製の王子 (講談社文庫)

 それはさておき、麻耶雄嵩の作品が問題作と呼ばれる所以のひとつにその過剰さがあります。たとえば推理小説で使われてきた特定のトリックを取り扱いたい、あるいは推理小説という構造そのものを問い直したいというとき、そういう自己テーマに対し異常なまでの熱意をもって突き詰めてしまう。そしてそうした過剰なまでの追及によって明らかになるのは、推理小説というジャンルが暗黙のうちに示してきた不文律や常識であり、その動揺はすなわちジャンル自体の存亡にかかわるというところにまで平然と飛んでしまう。ここに麻耶雄嵩の怖さがあるというわけです。

 本作においてこうした過剰さが向けられるテーマはふたつ。詳しい言明はネタバレのため避けますが、ひとつはトリックに関するものであり、もうひとつは動機にかかわるところです。後者に関しては麻耶雄嵩らしいところ、あるいは麻耶雄嵩が好みそうなところをやっているという印象もうけ(とはいえ過剰であることは間違いなく、麻耶雄嵩でなければやらなったようなことではある)、そういう意味では納得感(?)もあるのですが、前者についてはもはや過剰を通り過ぎて「やりすぎ」というところにまで達しています。このトリックを利用した作例は多くありますが、本作ほど複雑にやってのけたのはほかにないのでは? また推理小説ですのでトリックに対しては合理的な解決があたえられるわけですが(ただし「謎は必ず解決される」と単純にいえないところが麻耶雄嵩だったりする)、本作の場合「えっ、そんなのでいいいの?」という感じ。これを問題作といわずして、何をそう呼ぶのか。そういった風格さえ漂わせています。

   

島田荘司『幽体離脱殺人事件』読了。

幽体離脱殺人事件 (カッパ・ノベルズ)

幽体離脱殺人事件 (カッパ・ノベルズ)

 本作は御手洗潔シリーズと双璧をなす吉敷竹史シリーズの長編。わたしはカッパノベルスバージョンを読みましたが、これは絶版。アマゾンには写真もないというありさま。同じ光文社から文庫も出ているようですが、こちらも手に入りません。電子版もないという。

幽体離脱殺人事件 (光文社文庫)

幽体離脱殺人事件 (光文社文庫)

 島田荘司作品を読むたび思うのが、とにかく奇怪であるということ。たとえば死体が発見される状況が異常そのものであるとか、事件現場を偶然通りがかった人が超常現象を目撃するとか、思い付きで書いているとしか思えない状況で事件が始まります。本作においても同様。海上にある夫婦岩に結ばれたしめ縄に死体が引っかかっているという、かなり突飛な状況で死体が発見されます。下手な作家がこういうことを書くと一笑に付してしまいそうですが、そこは島田荘司。彼特有の妙に迫力ある文体がその珍妙な死体発見現場を描くので、読者は変な説得力を感じ、納得してしまうのです。

 そしてこうしたある種の奇怪さが論理的な推理によって解き明かされていく。そのカタルシスに島田荘司作品の肝があると個人的には考えています。もちろん一流の推理作家が考える、大ぼら寸前の奇怪さですから、それを科学的に説明するにはかなりの無理があるときもあります。正直にいって、物理トリックが大掛かりすぎてばかばかしく感じることもなくはない。しかしそれをふくめて島田荘司作品の魅力があるのではないでしょうか(ちょっと盲目的かも……)。いわば幻想とその科学的解明。島田荘司がもっとも得意とするところであり、本作においても十分生かされていたと思いました。

 また本作は吉敷竹史シリーズということから明らかなとおり、社会派推理小説に寄った作品です。もっともここでいう社会派推理小説とは一般的なそれ、すなわち「社会問題を作品の中核におく作品」というよりはむしろ、リアリズムを重視した推理小説という程度の意味合いであり、そのリアリズム志向と「幻想とその解明」が融合しているところに吉敷竹史シリーズの価値があるといえます。この二律背反しかねない志向性を同一作品に押し込めることができたのも、島田荘司の筆力あってのこと。少々無理があってもぐいぐい読者を引っ張る、謎の説得力はどこから湧いてくるのか。不思議です。

 

エラリー・クイーン『ローマ帽子の謎』読了。

ローマ帽子の謎 (創元推理文庫 104-5)

ローマ帽子の謎 (創元推理文庫 104-5)

 エラリー・クイーンの処女作であり、いわゆる「国名シリーズ」の第1作になります。そういう意味では本格推理小説の記念碑的作品であるといえるでしょう。

 ちなみに今回読んだのは創元推理文庫の旧訳版(井上勇)。現在の創元推理文庫には中村有希による新訳版が収められています。また角川文庫にも本作の翻訳が入っている模様。こちらは越前敏弥と青木創の共訳のようです。となると気になるのはハヤカワ文庫――と思って調べたところ、宇野利泰訳でした。ただし絶版です。

 あとどうでもよいのですが、タイトルについて創元推理文庫は旧訳新訳ともに『ローマ帽子の謎』。一方角川文庫とハヤカワ文庫は『ローマ帽子の秘密』。つまり「謎」か「秘密」の違いがあるということですね。原題は"The Roman Hat Mystery"なので、"Mystery"をどのように翻訳するかで違いが出たということになります。以前村上春樹サリンジャーの傑作"The Catcher In the Rye"を翻訳出版した際、今まで親しまれていた『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という直球のタイトルに変えて、話題になったことがありますが、『ローマ帽子の謎』についてはそういう議論もなさそうですね。

ローマ帽子の秘密

ローマ帽子の秘密

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 閑話休題。外的な情報はさておき、実際に読んでいて強く感じたのは「いかにも処女作だ」というところでしょうか。たとえば語り手の問題。クイーンといえば、語り手のクイーン本人が捜査から犯人の告発までを行うスタイル、すなわち語り手と探偵役が一致するスタイルでよく知られていますが、本作はその方式を採用していません。つまり多くの探偵小説と同じく、語り手と探偵役が分かれています。もちろん探偵はエラリー・クイーン(とその父リチャード・クイーン)ですが。

 また文体にしても「若書き」を感じさせます。そもそもクイーンは非常にやけに仰々しい文体ですが、本作は輪にかけて仰々しい。正直にいって、ややくどいとすら思いました。処女作の場合、作者の側が気負いすぎて文体がくどくなったり、あるいはいろいろなテーマを貪欲に語ろうとして過剰気味になったりすることはよくあることなので、「あのエラリー・クイーンですらそういう時期があったのか」と少しほほえましくなります。そういう積載過多な処女作を書いた作家でも、2作目以降は力が抜けてくるので、よい塩梅の作品が出来上がるというのもまたよくある話です。処女作より第2作目の方が評価が高い作家が結構いるのもこれが理由でしょう。ちなみにクイーンの場合はどうかというと――第2作目は『フランス白粉の謎』! 傑作じゃないか! 少なくとも『ローマ帽子の謎』より世評は高い作品です。

 さてここまで散々「若書きである」ということを書いてきましたが、とはいえ作者は天下のクイーン。推理小説の肝である不可能犯罪や論理性あるいはフェアゲーム精神は十分すぎるほどそなえられています。またクイーンは物語作者としても優秀な部類に入り、とりわけ「どんでん返しに次ぐどんでん返し」はクイーンの代名詞ですが、こちらの方面で見ても本作は2重丸。なかなかによくできたプロットだったのではないでしょうか。

 本作は処女作ということで、それにありがちな失敗は多く犯しています。が、のちに花開く才能の一片をのぞかせているのもまた事実。本格推理小説を飛躍的に進歩させた――いや、現代的な本格推理小説を形作ったエラリー・クイーンの足跡を追うには重要な作品だったのではないでしょうか。

R・チャンドラー『過去ある女――プレイバック――』読了。

過去ある女 プレイバック (小学館文庫)

過去ある女 プレイバック (小学館文庫)

 チャンドラーが長編作家として活動したのは1930年代から50年代にかけてですが、このころのアメリカの娯楽の王様といえばずばり映画。テレビにその座を奪われつつあったとはいえ、まだまだお金はたくさんあり、この時期に活動した大衆文学の作家の多くが映画脚本に手を染めています。チャンドラーも例外ではなく、主だった長編作品はあらかた映画化されており、また映画脚本も手がけています。

 さて本作はチャンドラーが書いた映画脚本のひとつであり、チャンドラー最晩年の作品『プレイバック』の原型とされる作品です。なおチャンドラー作品は名セリフとともに知られますが、なかでも有名なセリフである「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」が登場する作品こそこの『プレイバック』にほかなりません。

 ところで『プレイバック』はその難解さで有名です。長編にしてはやや短く、ストーリー自体は単線的で非常にすっきりしているものの、そこで語ろうとしているテーマが漠然としており、とらえどころのない作品に仕上がっています。よく指摘される通り、チャンドラーはプロットという点ではあまりほめられた作家ではなく、その文体や比喩の独特さ流麗さでハードボイルド文学の頂点に立ち続けているわけですが、『プレイバック』はその究極形といえます。

 一方で本作は『プレイバック』に比べると、映画脚本だからか、プロットが圧倒的に良質であると感じました。チャンドラーの作品を読む際に物語の筋だけ追いかけていると苦痛を感じることが正直にいってあるのですが、本作ではまったくなく、むしろ楽しんで読めたほどです。もちろん小説ではないので、いわゆる地の文はありません。したがって比喩や文体の快楽を味わうことはできませんが、その分せりふまわしはさえきっています。

 チャンドラーには珍しいウェルメイドな物語と、脚本になってもたがわぬせりふのかっこよさ。この2点を兼ね備えているという点で、ハードボイルド文学における傑作名作のひとつであることは決まったようなものです。もしかすると、ひとによってはチャンドラー長編よりも高く評価するかもしれません。

 ちなみに訳者あとがき(小鷹信光)によると

 レイモンド・チャンドラとハリウッドにお関係は評伝その他でくわしく語られている。奇妙なめぐり合わせのため、結局彼は自作の映画化には一度もかかわらなかったが、いくつもの映画のシナリオに関与した中で、のちにそのシナリオが単行本となって刊行されたものは、本書をふくめて三点ある。一点は、ビリー・ワイルダーとの共同脚本で『深夜の告白』(二〇〇〇年、小学館刊、森田義信訳)。ジェイムズ・M・ケインの『殺人保険』(Double Indemnity 四三年作)の映画化で、戦時中の四四年に公開された(日本公開は五三年)。二点目は「青い戦慄」(Blue Dahlia)のためのオリジナル脚本(『ブルー・ダリア』八八年、角川書店刊、小鷹信光訳)。この映画は終戦直後の四六年に公開された(日本公開は五六年)。
 この二本はいずれもアカデミー脚本賞の候補にのぼり(受賞は逸する)、フィルム・ノワールの初期の作品でありながら日本公開までに十年前後のギャップがあった、という共通点がある。そして三点目が、結局映画化は実現せず、それを元にチャンドラーが十年後に小説化を果たした本シナリオである。(pp.291-292)

 ということで『深夜の告白』『ブルー・ダリア』をAmazonで探してみたところ――どちらも絶版。これを残念にも思わず、むしろ当然のように受け入れているあたり、毒されてきています。とくに翻訳ものは一度絶版になると、再版されることはまずありません。翻訳権の問題もありますが、折からの出版不況で売れないのが理由としては大きいのでしょう。

深夜の告白

深夜の告白

ブルー・ダリア

ブルー・ダリア

 面白そうだが売れなさそうな翻訳小説を見つけたら、とりあえずは手に入れておくこと――20年近く読書を趣味にしてきてわかった処世訓です。本作を手に入れたのも、いずれ絶版になることを見越してのことでした。