nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館)読了。

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵あるいは絵踏というと「強権的な江戸幕府が無知蒙昧な人民を支配すべく、人民の内心を踏みにじり、思想統制をおこなった」というような語られ方をすることが多い。本書が提示しているのは、そのようなマルクス主義的なイメージとは全く異なる絵踏像--とまではいわないものの、そのようなイメージ先行で論じられがちな絵踏について、実際のところはどのようなものであったかを資料から丁寧に洗い出している。

絵踏というのは江戸幕府の事業で、全国津々浦々もれなく厳格に実施されていた--と個人的に勝手に勘違いしていたのだが、実際のところ、絵踏を行っていたのは会津藩のような例外を除くと、長崎とその周辺の九州の一部地域だけ。また当時江戸幕府の直轄地域だった長崎は別として、絵踏の実施主体は藩であり、藩や地域によって熱意や方法に大きな差があったようである。

本書を読んでいると、藩が本気でキリスト教を取り締まろうとしていたのか、疑問に思えてくる。ほとんどの藩では全領民を対象として、定期的に踏絵を踏ませていたようだが、疫病が流行っている地域はスキップしたり、年貢の早納めをした地域は免除したりという話を見ると、いよいよ怪しくなってくる。また江戸時代には「崩れ」と呼ばれるキリスト教徒の大量検挙事件が数回起きているのだが、江戸時代初期や幕末などを除くと、このほとんどはキリスト教とは無関係として裁かれている。そもそも絵踏は幕府肝いりの事業で、それを熱心に実施しているにも関わらず、キリスト教徒が現れるとなれば、絵踏に意味がないということになり、ひいては幕府の威信にもかかわりかねない。藩側もこれを理解していた節があり、ではなぜ絵踏を行っていたかというと、幕府への恭順をアピールするためというのが本書の結論のひとつである。

当時の長崎は江戸幕府の直轄地域だったことは先に述べたが、その総責任者である長崎奉行にとっても事情は同じで、幕府の禁教政策を滞りなく実施していることを示す格好の材料として、絵踏を実施していたきらいがある。ちなみに絵踏に欠かせない踏絵だが、一部の藩を除くと、長崎奉行の管理下にあったという。つまり絵踏を実施するには、長崎奉行から踏絵を借り出す必要があるわけで、この「借り出す」という行為も幕府に対するロビー活動のひとつであったという。あるいは「貸す」側の長崎奉行にとっても藩に対するプレセンスを高めつつ、「仕事してますよアピール」を幕府に送るうえで絶好の機会であった。

また絵踏というと「厳か」「悲劇」「沈痛」というような修飾がつきまといがちだが、本書を読むと異なる絵踏像が浮かび上がってくる。特徴的なのは長崎で、長崎では松の内に絵踏が行われていたという。現代日本では明治神宮への初詣や箱根駅伝の応援などが正月のニュースになるが、それと同じで、当時の長崎では絵踏もまた正月の年中行事・恒例行事として扱われていた可能性がある。あるいは絵踏会場の近辺に市がたったり、遊女が絵踏に来る日には見物客が押し寄せたりと、「厳か」「悲劇」「沈痛」では語れない絵踏の実態があったことがよくわかる。

もちろん、当時のキリスト教信仰者にとっては絵踏はつらく苦しい、気の重くなるイベントであったことは間違いない。しかしその絵踏があったにも関わらず、隠れキリシタンたちが江戸時代を生き延びていけたのは、絵踏それ自体がさほど苛烈ではなかったということの裏返しでもある。「絵踏さえ乗り切れば、信仰を捨てなくてもよい」という割り切りがキリシタン側にあった可能性だって考えられる。

本書は絵踏が幕藩体制の中でどのような意味を持ち、それを民衆がどのように受容したかが中心であるが、それ以外にも「漂流民に対する絵踏はどのように行われたのか」や「長崎に合法的に滞在する外国人に対して絵踏は行われたのか」といった、絵踏に関してあまり知られていない事実についても簡潔にまとめられている。歴史やキリスト教に関心があるならば、読んで全く損がない1冊だと思われる。