nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』読了。

 先に断っておくと、今回わたしが読んだのは旧版ですが、アマゾンを見る限り絶版の模様。旧版と同じ創元推理文庫から新訳が出ているので、とくにこだわりなどがない場合はそちらを読むことをおすすめします。手に入りやすいですし。ちなみにわたしは旧版の表紙が好きだったのでそちらを選択しました。古い創元推理文庫の表紙にはあらすじが記載されており、その結果非常にごちゃごちゃした印象を受けるのですが、わたしはその感じがなんとなく好きで、手に入る場合はそういう表紙の本ばかりを集めてしまっております。

 「推理小説を読む楽しみとは何か?」この問いかけには十人十色の回答があると思いますが、本作では次のふたつがとりわけ重要視されています:「意外な犯人」「論理的な推理過程」。いやむしろ本作にはこのふたつしかないのです。まずとある謎が提示され、それに対し6人が6人とも違う探偵法を用いて、違う犯人にいたる。嘘偽りなく本作はただそれだけの作品です。おそらく推理小説にあまりなじみのない人が本作を読むと、困惑しきりでしょう。「何が面白いのか」以前に「どう楽しめばいいのかわからない」という状態になると思います。しかしある種の推理小説ジャンキーにとっては作中に展開される論理的な推理過程に身をゆだねることが天上の快楽であり、それ以外はおまけに過ぎない。つまり本作は推理小説のある側面を異常なまでに掘り下げ、かつそれ以外の要素はほぼ投げ捨てた作品なのです。

 本格推理小説の低迷を憂える文脈において「初心者向けの本格推理小説とは何か」というテーマが議論に上がることがままあります。要するに初心者向けの本格推理小説を業界の外にアピールして新規の読者を呼び込みたいということですね。ただ実際にそのような議論に決着はつかず、今の今に至るまで初心者向けの本格推理小説が明快に定義されたことはありません。そもそも難易度や面白さといった主観的で量的に計測しづらいものに統一的な尺度を導入するというのは無理な話でしょう。とはいえわたしは明確に玄人好みの作品は存在すると考えています。推理小説という形式そのものに挑戦する作品や批評的な視点やメタフィクションの視点を取り入れた作品などです。そしてその観点から行くと本作は明らかに玄人好み。しかし逆にいうと本作を楽しいと思えるなら、立派な推理小説ジャンキーあるいはその素質を十分に持ち合わせているといえるのではないでしょうか。