nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

麻耶雄嵩『木製の王子』読了。

木製の王子 (講談社ノベルス)

木製の王子 (講談社ノベルス)

 新本格を随一の異能・麻耶雄嵩が2001年に著した長編作品です。講談社ノベルス版と講談社文庫版があるのですが(わたしが読んだのは前者)、残念ながら両方とも絶版。麻耶雄嵩といえばカルト的なマニア熱心な読者が多い印象があったので、世に出て10年強の作品がもう手に入らない状況に結構な衝撃を受けました。改めて現代の出版不況というか、本格推理小説というジャンルに対する風当たりを感じた次第です。

木製の王子 (講談社文庫)

木製の王子 (講談社文庫)

 それはさておき、麻耶雄嵩の作品が問題作と呼ばれる所以のひとつにその過剰さがあります。たとえば推理小説で使われてきた特定のトリックを取り扱いたい、あるいは推理小説という構造そのものを問い直したいというとき、そういう自己テーマに対し異常なまでの熱意をもって突き詰めてしまう。そしてそうした過剰なまでの追及によって明らかになるのは、推理小説というジャンルが暗黙のうちに示してきた不文律や常識であり、その動揺はすなわちジャンル自体の存亡にかかわるというところにまで平然と飛んでしまう。ここに麻耶雄嵩の怖さがあるというわけです。

 本作においてこうした過剰さが向けられるテーマはふたつ。詳しい言明はネタバレのため避けますが、ひとつはトリックに関するものであり、もうひとつは動機にかかわるところです。後者に関しては麻耶雄嵩らしいところ、あるいは麻耶雄嵩が好みそうなところをやっているという印象もうけ(とはいえ過剰であることは間違いなく、麻耶雄嵩でなければやらなったようなことではある)、そういう意味では納得感(?)もあるのですが、前者についてはもはや過剰を通り過ぎて「やりすぎ」というところにまで達しています。このトリックを利用した作例は多くありますが、本作ほど複雑にやってのけたのはほかにないのでは? また推理小説ですのでトリックに対しては合理的な解決があたえられるわけですが(ただし「謎は必ず解決される」と単純にいえないところが麻耶雄嵩だったりする)、本作の場合「えっ、そんなのでいいいの?」という感じ。これを問題作といわずして、何をそう呼ぶのか。そういった風格さえ漂わせています。