nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

竹中亨『ヴィルヘルム2世: ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」』(中公新書)

本書はヴィルヘルム2世の評伝である。評伝というと、ふつうは筆者の尊敬している人物や好きな人物を対象とする。「尊敬」「好き」はいいすぎにしても、少なくとも興味関心を持っている人物の人生を描くわけであるから、少なからず身びいきが入ってもおかしくないし、ものによっては頭からお尻まで賛美一色という評伝も珍しくない。本書が面白いのはそういう傾向に真っ向から逆らっていること、あけすけにいえば、ヴィルヘルム2世の能力について、ひたすらくさしているのである。

本書が述べているのは、ヴィルヘルム2世が皇帝の資質に欠けていたということである。少なくとも19世紀末から20世紀初頭というヨーロッパ大陸の揺籃期において、ドイツ帝国をサヴァイヴさせるだけの能力はなかったことは確かなようだ。たとえば、ヴィルヘルム2世は王権神授説の信奉者で、「朕は国家なり」を体現すべく、内政や外政に首を突っ込みたがったという。しかし時代は「君臨すれども統治はせず」のイギリス式に傾いており、ヴィルヘルム2世の介入はさほど影響を持たなかった。そうした時代の変化を読み取れず、古い考え方に固執したことも問題であるが、それにもましてヴィルヘルム2世には放言癖があって、その舌禍によって国家に迷惑をかけることもたびたびあったという。またそれ以外にも「あきっぽい性分から書類仕事はおざなり」「ひとつの箇所にいられない性質で、常日頃から旅に出ており、結果として政務をとるような状態ではない」「当人は一端の軍人気取りだが、実際はぼんぼんのおままごと。大雨で軍事訓練を中止しようとした」などなど、ヴィルヘルム2世が皇帝として能力に欠けていたというエピソードが次から次へ登場する。

個人的に意外だったのは、ヴィルヘルム2世が第1次世界大戦に対して消極的であったということ。ヴィルヘルム2世といえば、一般に第1次世界大戦を引き起こした大戦犯とされがちである。本書によれば、これは違う。むしろ戦争を支持したのはドイツ国民のほうで、この当時ドイツは産業革命により急激な経済成長を遂げており、ドイツ国民全体に「いけいけどんどん」の風潮が広がっていたようである。もっともヴィルヘルム2世が戦争に消極的であったということは、彼が平和主義者で博愛主義者であったということを意味しない。ヴィルヘルム2世といえば軍服姿でカイゼルひげを連想する。ヴィルヘルム2世自身もそのようなパブリックイメージを好み、常日頃は勇ましいことを断言的に述べてまわるのだが、いざ大ごとになるとへっぴり腰になるきらいがあって、第1次世界大戦への消極的姿勢もそうした弱腰の延長に過ぎないというのが本書の主張である。

自己顕示欲が強く、傲慢で自信過剰。そのくせ、いざというときには芯がぽきりと折れてしまう。時代錯誤の絶対君主としてふるまおうとするが、衝動的で我慢がきかない性格がゆえに、うまくいかないどころか、国家運営の障害になることすらある--本書はヴィルヘルム2世を明らかに人間性に難がある人物として描いているが、一方でサブタイトルにあるとおり、そのような人物を「国民皇帝」としている。この言葉の持つ意味は大きい。確かにヴィルヘルム2世は問題が多い人物であったが、それは当時のドイツ国家やドイツ国民の写し鏡であったというのが本書の主張なのである。もっともそこまでまじめにならなくても、本書のヴィルヘルム2世のけなしぶりはなかなか面白いので、一読の価値ありと個人的には思います(´・ω・`)

『増補改訂版 Java言語で学ぶデザインパターン入門 マルチスレッド編』を読んだ。

お盆休みというのはシステムエンジニア、もとい社畜にとってはまとまった時間がとれる貴重な機会。プログラマを稼業に据えて以来、まとまった休みには何かしらの習得に務めることが多いのですが、今回のお盆休みはマルチスレッドに目標を定め、自分が業務で使うことが多いJavaのマルチスレッド入門書として名高い、結城浩『増補改訂版 Java言語で学ぶデザインパターン入門 マルチスレッド編』(ソフトバンク・クリエイティブ)をやり通すことにしました。

勉強がてら写経したコードは以下に設置しています。もっとも写経といっても掲載コードを丸写ししたわけではなく、適宜自分なりに書き換えています。また本書は書かれた時期にはなかったJavaの機能などを多用しています(とくにラムダやローカル変数の型推論)。個人的な反省点としては、テストコードを書かなかったということ。「テストがきらい」というよりは、本書の掲載例がテスト・ドリブンを意識したものではなかったので、ついついさぼってしまいました(´・ω・`)

github.com

さてJavaによるマルチスレッド・プログラミングのさわりを学んでみての感想ですが、ロートルで時代遅れというレッテルを張られがちなわりにマルチスレッド関連の機能は充実していると感じました。synchronizednotifyAllのような低レベルのAPIもさることながら、とにかくjava.util.concurrentが便利すぎる。業務アプリケーションの開発であれば、java.util.concurrentで十二分に事足りるでしょう。

ただ本書のよいところは「Javaの便利なAPIを利用してみよう」では終わっていないこと。これは本書がjava.util.concurrentよりも前に書かれたからかもしれませんが、それに頼らないマルチスレッドプログラミングのお作法を1から学ぶことができます。とくにマルチスレッドプログラミングの基本中の基本であるsynchronizednotifyAllあるいはwait`について、なんとなくで理解していたということもあり、あらためて学びなおすことができたのは最大の収穫でした(´・ω・`)

山平重樹『闘いいまだ終わらず: 現代浪華遊侠伝・川口和秀』(幻冬舎アウトロー文庫)

お断り: 本作はいわゆる暴力団の組長を肯定的に描いた作品であり、実録という形をとってはいるものの、その内容がどこまで信用できるかについては議論の余地がある。以下に好意的な書評・感想を述べるが、これは本作の内容をすべて信じているということではない。また本作に肯定的であるからといって、現代の暴力団排除の風潮に反対するわけではないし、ましてや暴力団の存在すべてを肯定するということを意味しない。ただし、社会的に排除されるべき暴力団を肯定的に描いているからといって、その作品に価値がないという価値観にはくみしない。要は是々非々である。

2-3年前ほどになるが、『ヤクザと憲法』というドキュメンタリーが話題になったことがある。これは東海テレビのクルーが2代目東組の2次団体2代目清勇会に東海テレビのクルーが100日間密着、その日常生活を撮影するというもので、暴対法や暴排条例がどれほど法の下の平等に反しているか、警察権力や国家権力がやくざや暴力団という存在に対してどれほどまでに横暴にふるまっているのかがよくわかる、とてもよくできたドキュメンタリーだった。さてこの『ヤクザと憲法』の密着先である清勇会の会長であり、ドキュメンタリーでも中心的な役割を果たしていた人物が本書の主人公である。なお本書は読んでいると評伝のように思える(それほど綿密に取材をしている)が、一応は実録小説ということなので、その中心人物は「主人公」ということになる。

本書のタイトルは『闘いいまだ終わらず: 現代浪華遊侠伝・川口和秀』というものだが、これは文庫になった際に改題されたもので、単行本時代は『冤罪・キャッツアイ事件: ヤクザであることが罪だったのか』というタイトルで刊行されていた。いわゆる「キャッツアイ事件」というと暴力団や反社に関心がある人にはよく知られた事件で、昭和60年兵庫県尼崎市のスナック「キャッツアイ」にて、清勇会組員が当時抗争中だった山口組系倉本組組員に対して発砲。倉本組組員は重傷だったが、店内にいた当時19歳のホステスに流れ弾が命中し、運悪く彼女は帰らぬ人となってしまう。その痛ましさから暴対法制定のきっかけとなった事件で、主人公はこれを首謀したとして15年の懲役を余儀なくされてしまう。

しかしこれは冤罪であった。主人公は腎結石持ちで、実行犯2名に犯行を指示したとされる日は入院していたのである。要はアリバイがあるのだが、しかし警察としては末端組員2名を捕まえてもつまらない。そこで実行犯に対する拷問や恐喝に近い取り調べを行って「会長からの指示があった」という供述を引き出して、主人公を無理やり逮捕(なお実行犯と主人公の間にはいさかいがあり、これも実行犯が虚偽の証言をする動機のひとつになっている)。検察は警察とツーカーの中であるから、証拠不十分とわかっていて起訴に持ち込み、裁判所は「相手はやくざだからやったに違いない」と決め込んで、道理の通らない有罪判決を下してしまう。実は公判中に実行犯自ら虚偽の証言をしたことを告白するのだが、裁判所はこれに取り合おうともしない。日本の警察や司法が腐りきっていて、日本社会において法の下の平等というのは美辞麗句に過ぎないことが痛感させられる。

警察や検察や裁判所もさることながら、拘置所や刑務所もなかなかのひどさである。施設の方針や担当者の気分次第で法律上は当然通るべき理屈が通らないというのは序の口。ひどいものだと、受刑者に対する人権侵害や暴力が権力によって握りつぶされてしまう。やってもいない罪で収監され、22年の懲役を過ごす刑務所は無法地帯。再審請求をしても、やくざだからという理由ではねつけられる--絶望的としかいいようがない状態で、なぜ気を確かに生きていられるのかというと、それは筋の通った任侠だからとしかいいようがない。よく「筋の通った極道」といういいかたがなされるが、主人公はまさしくそれである。やくざというと反社会性ばかりが強調され、そしてそれは多くの場合で間違っていないのだが、その義侠心ゆえに曲がったことが許せず、代議士や官吏や知識人が自分たちに都合よく定めた秩序へ反抗し、結果として反社の烙印が下されるという侠客もなかにはいるのかもしれない。

安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館)読了。

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵あるいは絵踏というと「強権的な江戸幕府が無知蒙昧な人民を支配すべく、人民の内心を踏みにじり、思想統制をおこなった」というような語られ方をすることが多い。本書が提示しているのは、そのようなマルクス主義的なイメージとは全く異なる絵踏像--とまではいわないものの、そのようなイメージ先行で論じられがちな絵踏について、実際のところはどのようなものであったかを資料から丁寧に洗い出している。

絵踏というのは江戸幕府の事業で、全国津々浦々もれなく厳格に実施されていた--と個人的に勝手に勘違いしていたのだが、実際のところ、絵踏を行っていたのは会津藩のような例外を除くと、長崎とその周辺の九州の一部地域だけ。また当時江戸幕府の直轄地域だった長崎は別として、絵踏の実施主体は藩であり、藩や地域によって熱意や方法に大きな差があったようである。

本書を読んでいると、藩が本気でキリスト教を取り締まろうとしていたのか、疑問に思えてくる。ほとんどの藩では全領民を対象として、定期的に踏絵を踏ませていたようだが、疫病が流行っている地域はスキップしたり、年貢の早納めをした地域は免除したりという話を見ると、いよいよ怪しくなってくる。また江戸時代には「崩れ」と呼ばれるキリスト教徒の大量検挙事件が数回起きているのだが、江戸時代初期や幕末などを除くと、このほとんどはキリスト教とは無関係として裁かれている。そもそも絵踏は幕府肝いりの事業で、それを熱心に実施しているにも関わらず、キリスト教徒が現れるとなれば、絵踏に意味がないということになり、ひいては幕府の威信にもかかわりかねない。藩側もこれを理解していた節があり、ではなぜ絵踏を行っていたかというと、幕府への恭順をアピールするためというのが本書の結論のひとつである。

当時の長崎は江戸幕府の直轄地域だったことは先に述べたが、その総責任者である長崎奉行にとっても事情は同じで、幕府の禁教政策を滞りなく実施していることを示す格好の材料として、絵踏を実施していたきらいがある。ちなみに絵踏に欠かせない踏絵だが、一部の藩を除くと、長崎奉行の管理下にあったという。つまり絵踏を実施するには、長崎奉行から踏絵を借り出す必要があるわけで、この「借り出す」という行為も幕府に対するロビー活動のひとつであったという。あるいは「貸す」側の長崎奉行にとっても藩に対するプレセンスを高めつつ、「仕事してますよアピール」を幕府に送るうえで絶好の機会であった。

また絵踏というと「厳か」「悲劇」「沈痛」というような修飾がつきまといがちだが、本書を読むと異なる絵踏像が浮かび上がってくる。特徴的なのは長崎で、長崎では松の内に絵踏が行われていたという。現代日本では明治神宮への初詣や箱根駅伝の応援などが正月のニュースになるが、それと同じで、当時の長崎では絵踏もまた正月の年中行事・恒例行事として扱われていた可能性がある。あるいは絵踏会場の近辺に市がたったり、遊女が絵踏に来る日には見物客が押し寄せたりと、「厳か」「悲劇」「沈痛」では語れない絵踏の実態があったことがよくわかる。

もちろん、当時のキリスト教信仰者にとっては絵踏はつらく苦しい、気の重くなるイベントであったことは間違いない。しかしその絵踏があったにも関わらず、隠れキリシタンたちが江戸時代を生き延びていけたのは、絵踏それ自体がさほど苛烈ではなかったということの裏返しでもある。「絵踏さえ乗り切れば、信仰を捨てなくてもよい」という割り切りがキリシタン側にあった可能性だって考えられる。

本書は絵踏が幕藩体制の中でどのような意味を持ち、それを民衆がどのように受容したかが中心であるが、それ以外にも「漂流民に対する絵踏はどのように行われたのか」や「長崎に合法的に滞在する外国人に対して絵踏は行われたのか」といった、絵踏に関してあまり知られていない事実についても簡潔にまとめられている。歴史やキリスト教に関心があるならば、読んで全く損がない1冊だと思われる。

ここ2-3か月の読書メモ。

マリオ・ルチアーノ 『ゴッドファーザーの血』 (双葉社)

ゴッドファーザーの血

ゴッドファーザーの血

『ゴッド・ファーザー』のモデルになった人物の血を引き、みずからもマフィアの一員として世界を飛び回ったあと、日本ではやくざの盃をうけて、いわゆる経済やくざとして活動。現在はイタリアンレストランを経営している--というあらすじだけで、波乱万丈の生涯を送ってきた人物の自叙伝である。ふつうのサラリーマンをしていると、なかなかかかわりあいにならない世界の話のことなので、興味深く読んだ。ちなみに著者がオーナーのレストランだが、以前に食べに行ったことがある(本書を読んだのはこれがきっかけ)。たしか会社の新人歓迎会か何かで、料理はかなりうまかった記憶がある。

一橋文哉『餃子の王将社長射殺事件』(角川書店)

餃子の王将社長射殺事件

餃子の王将社長射殺事件

餃子の王将といえば安くてうまい中華料理レストランチェーンだが、その社長が白昼堂々銃殺され、その殺害方法から暴力団の関与が疑われつつも、犯人がいまだ逮捕されていないというのは世間に衝撃を与え続けている。本書はその餃子の王将社長銃殺事件の背景に迫ったものである。どこまで本当なのかは判断に困るが、日本全国に店舗を構える上場企業がこれだけの問題を抱えている、それも闇の深い問題ばかりというのは、個人的には衝撃だった。

猫組長・西原理恵子『猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言 』(扶桑社)

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

著者は山口組につながる組長という身分でありながらTwitterを開設し、山口組分裂騒動の際には独自情報を矢継ぎ早に公開したことで知られる人物である(現在はかたぎらしい)。やくざのしのぎというと薬物や用心棒や債権回収や違法賭博などを思い浮かべるが、著者は国際金融の世界でしのいできたらしく、本書にはその知見がさまざまに披露されている。とりわけ暴対法の影響で、やくざ社会は経済的に苦しいとされるが、その中でも稼いでいる人は稼いでいるということである。自分の知らない世界、障害かかわらないであろう世界のことであるから、興味深く読んだ。

磯部涼『ルポ 川崎』(サイゾー)

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

川崎市全域というか川崎市川崎区の一部地域について、HIPHOPやそれに近接するジャンルへのインタビューを通して、その実態をあぶりだそうとした1冊である。実をいうとわたしも川崎市民なのだが、本書が扱っている地域にはあまり縁がなく、知らないことだらけだった。「不良文化が煮詰まって、にっちもさっちもいかなくなっている」というのが読み終えての感想で、不良文化に親和性が高いHIP HOPを中心に据えたのは正解だったと思う。

山平重樹『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目石井隆匡の生涯』(幻冬舎アウトロー文庫)

ノンフィクションではなく、限りなく実話に近いフィクションで、稲川会二代目会長がその主人公である。名門の旧制中学を暴力沙汰で退学になったあと、愚連隊・博徒・経済やくざとステップアップしていき、晩年には竹下首相の命運を握るまでにいたる--その波乱万丈の内容が面白いはもちろんのこと、かなり綿密に取材していることが節々にうかがわれる点に好感を抱いた。

鈴木智彦『鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記! 』(宝島社)

鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記!

鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記!

著者は暴力団専門のジャーナリストだが、本書はその専門以外の「激ヤバ地帯」に自ら飛び込んでいった取材録である。「激ヤバ地帯」ルポオムニバスといった具合で、どれを読んでも知らない世界のことばかりだった。この本は日曜の夕方、子供たちが騒ぐ中、サイゼリアで夜ご飯を食べつつ読んでいた記憶があるが、少なくとも食事中に読む内容ではなかったとだけはいっておく。タイトルで判断しろ、といわれればその通りだが(´・ω・`)

北方謙三『草莽枯れ行く』(集英社文庫)を読んだ。

草莽枯れ行く (集英社文庫)

草莽枯れ行く (集英社文庫)

本作の主人公は相楽総三で、一介の尊王攘夷志士に過ぎなかった青年期から偽官軍である赤報隊の隊長として処刑されるまでを描いている。歴史小説というジャンルにうといため、とんちんかんなことをいっているかもしれないが、相楽総三はどのようにも描ける人物だと思われる。たとえば赤報隊が本当に偽官軍だったという立場をとれば、相楽総三は相当な野心家であり、幕末という揺籃期に功成り名遂げようとした山師ととらえることができる。一方、薩長政権の都合で偽官軍の汚名を着せられたとすると、相楽総三は純粋がゆえにみずらかの身を滅ぼすことになった悲劇のヒーローと描くことができよう。

本作は後者的な立場から相楽総三を描くが、面白いのはもうひとりの主人公に清水次郎長を据え、両者が相通じあっていたという設定にしたことである。清水次郎長というと、博徒無宿の大親分として子分を引き連れながら全国津々浦々を巡ったというイメージが強いが、これは後世の創作によるもので、史実では早々に博徒は引退し、清水港の荷役を仕切る事業家という側面が強かったらしい。本作は創作と史実のちょうど間--それよりはやや史実よりに清水次郎長を描いている。

相楽総三尊王攘夷清水次郎長は任侠道。ものは違えど、両者はおのれの信じた道を迷いながらも進んでおり、そのふたりが男同士の友情で切り結ばれるのは必然といえる。しかし相楽総三は信じた道を純粋に突き進んだがゆえに現実社会に裏切られ、たいする清水次郎長はやくざ稼業にありながら、現実社会とうまく折り合って、ひとかどの人物へと成長していく。攘夷志士にしろ博徒にしろ社会のはみ出し者だが、そのはみ出し者の片方は処刑され、もう片方は成功する。この対比が相楽総三の悲劇性を重層的にあぶりだしているといってよいだろう。

もっともここまで難しく読まなくとも、相楽総三清水次郎長という幕末の有名人に交流があったというのは、エンターテイメント的な面白さがある。ほかにも坂本龍馬土方歳三勝海舟山岡鉄舟など、幕末のヒーローがいれかわりたちかわり登場。清水次郎長側に目を向けても、大政・小政のような子分だけでなく、次郎長永遠の宿敵・黒駒勝三まで物語に関係する。史実かどうかはともかくとして、ここまで有名人ばかりだと、読んでいて楽しい。大衆小説や通俗小説としてもよくできている作品である。

ジャン=バティスト・マレ『トマト缶の黒い真実』(太田出版)を読んだ。

トマト缶の黒い真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

トマト缶の黒い真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

いまや日本の食卓にすら欠かせなくなりつつあるトマト缶。その原料となるトマトも含めて、どこからやってきて、どのように加工され、そしてどうやって食卓に届いているのかを追いかけてルポタージュが本書である。タイトルに「黒い真実」とあるように、その真相はまったく楽しいものではない。トマト缶を買う気すら失せるレベルである。

たとえばイタリア産やアメリカ産とラベルされたトマト缶が日本の片田舎のスーパーにすら並んでいるわけだが、これは原材料であるトマトがイタリアやアメリカで収穫されたということを意味しない。世界中から前歴不問・正体不明のトマトペーストを集めたあと、これに添加物や化学薬品をたっぷり混ぜて(ときにはトマトの割合以上に混ぜ物をするという)、イタリアやアメリカの工場で缶詰に詰めれば、そのトマト缶は晴れて「イタリア産」「アメリカ産」となる。原料となるトマト自体も、品種改良と遺伝子組み換えを活用して作られた、トマトペーストに特化した品種で、農薬が利用されたかどうかも判然としないような環境で栽培されている。

「トマト缶を買う気すら失せるレベル」としたが、これは単に「食の安全」に限ったことではない。トマト農園や缶詰工場はときにマフィアと結託して、児童や不法移民あるいは非正規労働者を活用。コストを可能な限り抑えつつ、圧力団体として政府を動かし、無茶苦茶なビジネスの横やりを通してしまう。

本書を読んで見えてくるのは、安くてうまくて便利なトマト缶が新自由主義とグローバリゼーションの申し子ということである。新自由主義は門地身分にかかわらない自由な経済競争を、グローバリゼーションは国境を越えた自由な移動をひとびとにもたらす--はずだったが、そのふたつが結託した結果、すさまじい経済格差と「階級」の固定化、あるいは新植民地主義としかいいようがない地域格差が出現したことはよく指摘されている通り。いわば新自由主義とグローバリゼーションの負の側面がトマト缶に表出しているのである。

ところで本書を面白くしているのは、こうした「ショッキングな真相の暴露」というセンセーショナルな観点だけではないということは断っておきたい。本書はノンフィクション作品ではあるが、構成がかなり練られていると感じる。最初のうちは情報が断片的にしか与えられない。これを読み続けていると、その断片的な情報が少しづつリンクし、読み終わって初めて全体像が明らかになる。冒険小説や推理小説顔負けといってよいだろう。また筆者は真相を探るべく、中国の新疆ウイグル自治区やヨーロッパあるいはアフリカなど、世界中を飛び回る。さながら世界をまたにかけるスパイであり、その雄大さが本書を読ませる原動力になっているといってよいだろう。