nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

最近読んだ、キリスト教にかかわる小説(+α)

記事タイトルにあるとおり、ここ最近は偶然にもキリスト教がモチーフになった小説を続けて読んだので、その感想を書き散らしておきます。なお紹介する本の一覧は次の通りです。

『沈黙』『権力と栄光』『情事の終わり』

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

権力と栄光 グレアムグリーンセレクション  ハヤカワepi文庫

権力と栄光 グレアムグリーンセレクション ハヤカワepi文庫

情事の終り (新潮文庫)

情事の終り (新潮文庫)

この3冊に描かれるのは「だめなクリスチャン」です。棄教する伝道者、夫の友人と不貞を働く妻、あるいは子を作った挙句に警察から逃げ回る神父。かれらは極端な例かもしれませんが、しかし多かれ少なかれ人間には「だめ」な部分があり、そしてその「だめ」な部分は多くの場合キリスト教信仰とは相いれないものです。「人間の弱さや身勝手さ」と「完璧無比な高潔さを求める信仰」の間には葛藤があり、その葛藤に対して三者三様の答えを導いているとわたしは思いました。正直なところを述べると――キリスト教信仰や道徳を完璧に実践したような聖人のエピソードよりも、自らのどうしようもない弱さに向き合った3作のほうに好感を持ったのも事実です。

『死にゆく者への祈り』

死にゆく者への祈り (ハヤカワ文庫 NV 266)

死にゆく者への祈り (ハヤカワ文庫 NV 266)

これをキリスト教文学にカウントするのは珍しいとは思いますが、とはいえカトリックが作品内の重大なファクターではあるので、個人的にはキリスト教文学の範疇でよいのではと思います。先に挙げた3作と比べると、本作に描かれるクリスチャン像はきわめて力強いものです。キリスト教道徳が求めるところの高潔さを身に着けた神父が自らの信仰の実践として、自らの敵を愛する――「ダメなクリスチャン」よりは人間臭さは減るものの、これはこれでキリスト教信仰の一面を描いたものであり、またそのようなある種の「男性」性が冒険小説/ハードボイルド小説とマッチしています。まあ、そういう小難しい理屈をのぞいても、いわゆる娯楽小説としてはレベルの高い作品だと思います。

『日本の新宗教50: 完全パワーランキング

日本の新宗教50 完全パワーランキング

日本の新宗教50 完全パワーランキング

ゴシップ本の類ではあるのですが、たまにはこういう本も読みたくなります。タイトル通り日本の新興宗教を百科事典的に概説したものです。それ以上でもそれ以下でもないので、過剰な期待はしないように。とはいえ新興宗教界とでもいうべき魑魅魍魎の世界を覗き見る気分にはなれます。あるいは創立されて50年もたたない、あけすけにいえば宗教性があるとも言えないような宗教団体にすら、多くの人々がすがってしまう現実から「人間の難しさ」を見つめなおす機会になるかもしれません。なお記事タイトルにあるキリスト教文学は全く関係ありません(´・ω・`)

湊川あい(著)/DQNEO(監修)『わかばちゃんと学ぶ Git使い方入門』

わかばちゃんと学ぶ Git使い方入門〈GitHub、Bitbucket、SourceTree〉

わかばちゃんと学ぶ Git使い方入門〈GitHub、Bitbucket、SourceTree〉

SVNな開発現場からのレポートです(´・ω・`)

お仕事としてGitを使う機会が少ない――というかほとんどなかったので、これを機会に基礎中の基礎から学ぼうと思い購入しました。Gitの難しさは「Git自体の思想や概念」「コマンド体系」の2つがあると考えています。本書のユニークな点は、この2つの難しさのうち「Git自体の思想や概念」の理解に注力していること。漫画という形式は「Git自体の思想や概念」をビジュアル的に理解するにあたっては最適ですし、また解説にあたってはGUIクライアントツールを利用しているのですが、これは「コマンド体系」の難しさを隠ぺいすることに一役買っています。

漫画にしろGUIにしろ職人気質のプログラマからは低く見られがちな要素ではありますが、しかし初心者向けあるいは非プログラマ向けという観点からみると、この2つを採用した戦略は全く正しいと思います。少なくともわたしには「はまる」一冊でした。

最後にひとつだけ。個人的にはわかばちゃんよりエルマスさん派です(´・ω・`)

矢野啓介『プログラマのための文字コード技術入門』(技術評論社)

プログラマのための文字コード技術入門 (WEB+DB PRESS plus) (WEB+DB PRESS plusシリーズ)

プログラマのための文字コード技術入門 (WEB+DB PRESS plus) (WEB+DB PRESS plusシリーズ)

日本社会でプログラマ稼業/システムエンジニア稼業をやっていて避けて通れないのが文字コード。とりわけわたしのようにSIerで働いていると、複数システムの連携において文字コードが問題になることが頻繁にあります。「Windowsシステムが送ってきたShift-JISのcsvUnixベースのシステムにとりこみ、この結果をUTF-8csvにしてLinuxシステムに送る」程度であればまだかわいいほうで、ここにメインフレームやらLotus NotesやらEメールやらがかかわると、途端に地獄を見ることになります。かくいうわたし自身も文字コード起因のトラブルに巻き込まれたということもあり、本書を手に取った次第です。

文字コードの基礎の基礎から学べ、なおかつその応用まで一冊です。文字コードに関する技術はもちろんのこと、文字コードをめぐる歴史や文字コードプログラミング言語の関係、あるいは文字コードをめぐるトラブルシューティングなどなど、盛りだくさんの内容でした。「入門」とタイトルにはありますが、その割には比較的骨のある内容で、読みとおすには時間と力量が必要になるかもしれません。とはいえその骨太さはそれだけ内容が確かであることの裏返しですし、手元に置いておく価値がある1冊だと思いました。

『Java本格入門: モダンスタイルによる基礎からオブジェクト指向・実用ライブラリまで』(技術評論社)を読んだ。

Java本格入門 ?モダンスタイルによる基礎からオブジェクト指向・実用ライブラリまで

Java本格入門 ?モダンスタイルによる基礎からオブジェクト指向・実用ライブラリまで

ネット上で好意的な書評を見る機会がちょくちょくあり、そこから興味を持って読んだのですが、評判通りの良書でした。

本書はいわばJavaのリファレンス本であり、Javaの機能がさまざまな観点から紹介されています。したがってタイトルには「入門」とあるものの、「プログラミング自体が初めて」とか「プログラミングの経験はあるがJavaはまったく書いたことがない」という人がターゲットではなく、「Javaの経験はあるがまだまだ初心者の域にある」とか「Javaの経験は長いが、その場その場の付け焼刃でここまで来てしまった」という人にお勧めできる本だと思います。「タイトル詐欺」というよりは「タイトルで損をしている」タイプですね(´・ω・`)

Javaリファレンス系の技術書はいろいろと存在しますが、本書がそれら類書と違う点として「現場寄り」のスタンスがあります。その典型といえるのは「Chapter.8 ファイル操作を極める」。全14章の本において貴重な1章をファイル操作に割くあたりに、現実のプログラミングにおけるファイル操作の困難さを反映しているといえるのですが、着目すべきはその中身。この章では特徴的なファイル操作(書き込みや削除など)をいくつか取り上げているのですが、その話題ごとに[Java6以前の書き方」と「Java7以降の書き方」が併記されています。冗長ともいえるほどの併記の連続は「Java7においてファイル操作系apiがどのように便利になったのか」ということが一目瞭然ですし、またプログラミング言語界の老舗であるJava特有の事情――つまり古いバージョンのJavaコードをメンテナンスせねばならないときにも、この併記は役に立つはずです。

あるいは「Chapter.9 日付処理を極める」。Java8において導入されたDate And Time APIを扱ってもよかったはずの章ですが、しかしDateとCalendarという過去のAPIについてもきっちりと記述されています。Date And Time APIが便利なことはいうまでもないのですが、現実のプログラミングにおいてはライブラリや資産の関係上、DateやCalendarを用いることは多々あり、「Date And Time APIにすべて置き換え」とはいきません。ほかにも利用する機会が多いにもかかわらず、落とし穴も多い文字列操作を扱った章があったり、Java8の目玉機能であるStreamに関する章では現場視点のサンプルが提供されたりと、その「現場志向」は徹底しています。またところどころにコラムやTipsが紹介されるのですが、それらからも筆者たちがJavaを日常的に扱っていることがわかり、好感と信頼が持てるといえるでしょう。

最後に少しだけ指摘をあげておくと――まずアノテーションやリフレクションについては少し記述が薄いように感じます。いわゆるメタプログラミングですね。RubyLispなど、メタプログラミングを得意とする言語をよく書く身から見ても、Javaメタプログラミングへの機能は充実しており、これを解説しない手はなかったのでは? 一方でデザインパターンを扱った「Chapter.12 デザインパターンをたしなむ」。これはいらなかったように感じます。もちろんデザインパターン自体を否定しているのではなく、本書が扱うべきテーマとしてはふさわしくなかったように思うということです。いうまでもなくデザインパターンJavaの専売特許ではありません。せっかくJavaの専門書ならばJavaに特有のテーマを扱ってほしかった。

とはいえこれらの欠点は些細なものであり、本書全体の評価を損なうほどのものではありません。総合的に見て良書だと思います。

Part2があるとすれば、より上位者向けになるのか、あるいは「JavaEE本格入門」になるのかしら(´・ω・`)

働くって大変

日曜日の夕方。というより夜に差し掛かろうとしている。この時間帯はいつも憂鬱である。理由はいうまでもない。明日から地獄のような仕事が始まるからだ。失楽園の際に人間に対して罰として労働を課したと旧約聖書にあるようにそもそも労働自体がつらいことなのだが、それにもましてつらいのは今の仕事がひどい局面にあるということである。


完全なる愚痴エントリである。まずは建前として断っておきたいのは、これから述べることはまったくのフィクション、架空の作り話である。そもそも現在進行形の話ではないかもしれないし、もしかするとカインとアベルがいまだ仲良くやっていた時代にまでさかのぼることかもしれない。

端的に述べると所属しているプロジェクトが炎上している。詳しいことは書けないが、それでも簡単に概要を述べておくと、元請が提案したパッケージ製品が要件に適合しておらず、その「適合していない部分」が完成直前になって判明。その結果として「適合していない部分」を作り変えるはめになったのである。なおこの「適合していない部分」というのは、私見では全体の40-50%をしてめている。パッケージ製品の根幹部分――とまではいわないものの、パッケージ製品が売りにしている機能のひとつを作り直そうというのだから、炎上もやむを得ない。

それにしても「パッケージ製品が要件を満たさない」ということが提案局面あるいは最上流局面においてわからなかったのか? 風の噂に聞いたところによると、プロジェクトを立ち上げたITコンサル(爆笑)が技術はおろか業務もよくわかっていなかったような女性だったらしく、自社製品をいけいけどんどんで売ってしまったとのこと。そうそういい忘れていたが、このパッケージは元請SIerの製品である。もうひとつ断っておくと、このパッケージ製品のできはよく、正しく利用すれば十分な効力を発揮すると思われる。炎上は製品が悪いのではなく、製品が要件にマッチしないことを見抜けたかった元請が大元凶である。製品に罪はない。

話がずれてしまった。くだんの彼女だが、以前はちょくちょくプロジェクトにやってきていたものの、プロジェクトがきな臭くなるや否や、顔を出さなくなっている。それはおろか彼女の担当タスクすら満足にこなしておらず、それを催促するメールを出しても帰ってこない。現状は彼女の怠慢を咎めたり怒ったりする気力も失われてしまったというのが正直なところである。

プロジェクトが炎上するにあたって不満があるとすれば、元請の態度である。細かいことがあげだすときりがないが、個人的にもっとも不満に感じていることがあるとすると「作業者の割に管理者が多すぎる」に尽きる。たかだか10人前後のプロジェクトにおいて、プログラマを管理する自称マネージャが4-5人も必要なのか? もちろんマネージャという職種や役割が不必要といいたいわけではない。むしろこのような炎上状態においてこそ、マネージャの力量が問われる。しかし残念なことに元請SIerのマネージャどもはそろいもそろって無能ぞろい。プロジェクトの進行をたすけるどころか、障害になっているとすら感じる。

まずは統括的役割のマネージャ。ピンチのときに人間の本質があらわになる――というのはよくいったもので、彼も平素であれば優秀なマネージャなのだが、この炎上状態においては焦りを見せるばかり。朝会や夕会と称してほかのマネージャどもを集めては、いらだちをぶつけている。ときには作業者たるプログラマまでその罵声が向くから質が悪い。怒鳴り散らすその1-2時間があれば、もっと別のことができたのではないだろうか。

マネージャにもいろいろ区分があるらしく、主に顧客折衝を担当するマネージャがふたりほどいる。ひとりが男で無能。もうひとりが女だが、彼女も無能。男のほうは穏やかな性質の持ち主で、人間的に非常によくできているのだが、その性格があだになり、顧客の要望や仕様変更、あるいは怒鳴り散らす統括マネージャの朝令暮改な命令をほぼ無制限に受け入れてしまう。要するに伝書鳩をやっているだけで、折衝係としての役割を何もこなさない。

次に女だが、彼女は自分のチームとプライベート生活を守ることしか頭にない。炎上時における顧客とのコミュニケーションのあり方としてはこれでよいのだが、本来彼女が行うべきタスクすら突っぱねるため、結果としてひとのいい男マネージャとそのチームに仕事が降りかかってしまう。しかも普段は女性らしく扱うことを嫌がる割に、仕事を拒否するにあたって女性性を前面に押し出すきらいがあるため、個人的な印象は相当悪い。

最後にプログラマを直接管理する役割にいるマネージャがひとりいるのだが、私見ではプロジェクト最大の癌はこいつである。彼の癌たるゆえんは技術力のなさ。わたしの技術力を100とすれば彼は5かそこら、かなり甘く見積もっても10には届かないだろう。技術力がないと何が困るかというと、工数が正しく見積れないのである。ソフトウェア開発には「簡単そうに見えて実は難しい作業」と「難しそうに見ても実は簡単な作業」がそれぞれ存在するが、技術がわからないとその区別がつかず、結果として難しい作業に少ししか工数を割り振らないなど、とんちんかんな工数見積もりをしてしまう。またプログラマにも能力の差スキルの差が存在するが、技術力がないとこの差を見分けることもできない。そのためスキルアンマッチなタスクをプログラマにあてがってしまったり、能力の低いプログラマに難しい作業を担当させたりと、効率的な工数管理とはいいがたい状態になっている。

要するに元請SIerの能力が低いがゆえに炎上し、プログラマが精神的にも肉体的にも疲弊している――それにもましてひどいのが、プロジェクトがそれだけひどい状況にあることを知りながら、引き上げようとしない弊社である。もっとも引き上げられない理由もわからないでもない。弊社の売り上げのうち馬鹿にならない部分をこの元請SIerに頼っている以上、関係を維持する必要があり、またこのプロジェクトは比較的「きっぷがいい」らしく、会社としても金づるを逃したくないのである。それならつらい目にあっているプログラマシステムエンジニアの給料やボーナスに反映してほしいのだが、それは夢のまた夢。がってむ。


転職。しかしこれも簡単なことではない。プログラマの身の振り方として考えられる業界はおおきくわけて3つある。すなわちSIer、社内SE、そしてWeb業界である。まず社内SEは論外。そもそも企業のIT部門は人事異動の一環でいやいや行かされるような部門であり、技術を片手に食っていきたい人間の行くべき場所ではない。仕事内容もメインフレームのお守りやPCのセットアップが大半で、はっきり言って魅力的には感じられない。少なくともわたしにはそうだ。SIerの仕事をしていると、企業の情報部門と打ち合わせをすることが多々あるのだが、そのミーティングの場で生き生きとした目をしている人間を見たことがないというのが、日本企業における情報部門の立ち位置を端的に示している。

ではWeb系はどうか。ここも選択肢としては厳しいがある。まずもって関心が低いというのが大きい。そもそも自分の生活を振り返ってみると、それほどWebサービスを使っていないのである。スマホアプリはおろか、スマートフォンすらさほど利用しない。また技術的にもWeb業界においてよく使われるのはRubyPHPなど、LL系言語だろう。競技プログラミングなどのプライベートではRubyPythonをよく利用するが、果たしてこれで仕事をしたいかと問われると即答しづらい。個人的にはJavaやその関連技術に関心があるので、これを仕事にしてみたいのだが、現在の日本のWeb業界においてJavaは明らかに傍流--というか異端だろう。確かにJavaの特徴でもある「大クラス主義」、つまり「とにかくたくさんのクラスを作ってそれを組み合わせることこそがプログラミングなのだ」という思想とスタートアップ的なビジネスモデルとは相性が悪いのはよくわかるのだが。

閑話休題。社内SEとWeb業界がだめとなると、残るはSIerだけだが――転職したい理由が「SIerでつらい目にあっている」である以上、これも選択肢から外れてしまう。実をいうと受託開発というビジネスモデル自体にそれほど悪印象はない。むしろ一生の仕事にしてもよいとすら思っている。しかしSIer業界あるいは受託開発業界の抱える闇--徹底したプログラマ軽視や上流至上主義あるいは長時間労働体質などなど、それらを考えると一生居ついていられるような場所ではないと感じられる。 要するに八方ふさがりということである。ホワイト受託開発会社を探すのが現実的な解のような気がするが、果たしてそんなものが存在するのかしらと絶望してしまう。


ここまでのエントリ、すなわち怒りと涙の愚痴エントリを書いたあと、焼き肉屋で夕食をとった。そして帰ってきてこれを書いているのだが、わかったことがある。腹いっぱいの肉は人間の怒りを鎮めるということである。食べに行った焼き肉屋だが、必ずしも上等な類のそれではない。いわゆるチェーン店系の格安焼き肉屋である。提供される肉も値段相応の味と品質だが、そんな肉でもおなか一杯食べると実に幸福である。ソフトドリンクもドリンクバーを利用してたらふく飲んだが、なおさら幸福である。肉には人間を幸福にする成分が山ほど含まれているか、もしくはわたしの思考回路が腹いっぱいの肉程度で満足するような単純な構造になっているか。いずれにしろ私は幸せです。


もうひとつ発見を書いておく。精神や身体が疲れているときに中島みゆきを聴くと、おそろしく心にしみる。歌詞もメロディも素晴らしいが、何より素晴らしいのはあの声。一聴すると洗練されているが、その奥底には土着的な宗教性が宿っており、傷ついた人間にはそれがあたかも救いのようにしみわたるのである。

中島みゆきのすごさをもうひとつ述べるならば、コンスタントに売れ続けているということだろう。言い換えれば「自分の世代年代にとっての中島みゆき」といえる曲が日本中のあらゆる世代に存在するのである。とある過去の一時代においてはよく売れ流行したという歌手や作家は多数存在するが、中島みゆきは節目節目においてヒット曲を書き続けている。それは中島みゆきの持つ普遍性を示すこの上ない証左であり、カナン地方の民族宗教世界宗教にまで昇華したナザレのイエスと同じーーとまではいわないものの、それに近しいカリスマ性を感じるのである。


すでにタイトル通りの内容を書く気はないのだが、ここ数か月コンスタントに1000pv/monthを達成している。不思議(´・ω・`) 何か悪いことをやらかしたのかしら。アフィリエイトSEOに特化したわけではないし、内容的にも大して価値がない、ただただ20代男性が読んだ本の感想と仕事の愚痴を書き散らすだけのブログである。よくわからんが、頑張って生きていきたいとおもいます(`・ω・´)シャキーン

Joshua Bloch『Effective Java 第2版』(丸善出版)

EFFECTIVE JAVA 第2版 (The Java Series)

EFFECTIVE JAVA 第2版 (The Java Series)

えふぇくてぃぶ(`・ω・´)シャキーン ここ1-2か月、ストレスフルな仕事が多く、テンションがおかしなテンションになりがちです。ゆるしてね(´・ω・`)

いわずとしれたJavaの名著です。いわゆるベストプラクティス集ですが、「なぜそのようにすべきか」ということが実際のコードを交えながら、詳細に解説されており、非常に勉強になりました。歴史の深い言語でかつ後方互換性を重視しているというJava特有の事情――すなわち過去の情報が氾濫する中で何が正解なのかわかりずらいという事情のもと、Javaの正しい書き方の指針となる一冊だと思います。

ところでわたしはSIer勤めのしがないシステムエンジニアで、Javaを書くことを生業にしています。現在参加しているプロジェクトでは元請の上流SEがコーディング規約を定めているのですが、その規約が本書に違反しまくり。つらいです……。コードもろくに書いたことのないSEが技術的な最終決定を下すというのは受託開発業界あるあるですが、まさかこのような形で思い知るとは。がってむ(´・ω・`)

三浦綾子『道ありき』『この土の器をも』『光あるうちに』<「道ありき」3部作>

道ありき―青春編 (新潮文庫)

道ありき―青春編 (新潮文庫)

この土の器をも―道ありき 第2部 (新潮文庫)

この土の器をも―道ありき 第2部 (新潮文庫)

光あるうちに―道ありき第3部 信仰入門編 (新潮文庫)

光あるうちに―道ありき第3部 信仰入門編 (新潮文庫)

クリスチャン=プロテスタント作家である三浦綾子の自伝的小説――と紹介されることが多い3部作ですが、自伝あるいは私小説といえるのは第1部と第2部だけ。残る第3部はキリスト教信仰に関するエッセイ集的意味合いが強く、その点ではやや蛇足のように感じられます。いわゆる文学作品を求めている人は第2部まででやめておくのがよいでしょう。

これは個人的な意見ではあるのですが、キリスト教信仰には「力強さ」の側面があります。たとえば聖人や福者と呼ばれるようなひとびとは命を懸けて信仰を貫いたり伝道を行ったりしたことがほめたたえられ列聖されており、そもそもナザレのイエスが全人類の罪を贖うために命を神にささげることが宗教としての始まりになっています。見ず知らずの人間のために命さえも惜しげもなく捨ててしまう――そのような「力強さ」に満ち満ちた態度が信仰の始まりであり賞賛の対象であるキリスト教において、弱者はどのように位置づけられるべきか。いいかえれば「力強さ」を発揮できない社会的経済的環境にいる人間がどのようにしてキリスト教信仰と折り合いをつけるのか。それに対してひとつの解答を提示してくれたのが本シリーズ、すなわち死に至る病に侵され、30代の後半までベットの上で過ごした「弱者」たる女性作家の自伝でした。

本シリーズにおいて繰り返されるのは「キリスト教信仰が社会的弱者に生きる意味とアイデンティティを与えてくれた」という主張であり、それを裏付けるエピソードです。「社会や家族に迷惑をかけているばかりで生きているだけ無駄だ」と自己評価を下している作者が聖書を信仰し霊的な体験を経ることでみずからの生きる意味を獲得する。そして人生は好転。友人関係にも恵まれ、同じくクリスチャンの生涯の伴侶を獲得し、社会的にも経済的にも恵まれていく――正直にいって第1部の後半あたりから、キリスト教信仰によって得た現世利益の話が増えてくるのは事実であり、そこに疑問を感じないというと嘘になります。また物語が進むにつれ、霊的体験やエキセントリックな宗教体験に関するエピソードが減っていき(もともと本シリーズにそのようなエピソードが少ないのですが)、対照的に現世利益的側面が増えていくため、読む人によってはひどく「生臭く」感じられるかもしれません。しかしそれでもなお「弱さとキリスト教信仰がどのように結びつくのか」という疑問に対する一つの解答あるいは凡例であり、キリスト教信仰に関心があるならば十分に読む価値があると感じます。

最後に一点だけ表層的なところで気になったことをあげておくと、本シリーズの同性愛理解でしょうか。「性欲に溺れるがゆえに異性から同性へ、そして最後には人間ならざる獣にまでその対象を広げていく」というような同性愛理解がたびたび提示されますが、リベラルなジェンダ教育を受けた身としては読んでいてつらいものがありました。というよりいまどき保守的な思想の持ち主でも同性愛をこのようには考えていないのでは? もっとも時代背景を考えればけちをつけてもしかないという面はあるのですが……。