nekoTheShadow’s diary

IT業界の片隅でひっそり生きるシステムエンジニアです(´・ω・`)

三遊亭圓朝『真景累ヶ淵』(岩波文庫)

真景累ケ淵 (岩波文庫)

真景累ケ淵 (岩波文庫)

今では英米文学、なかでも英米のミステリやハードボイルドを中心に読んでいるわたしですが、高校時代は日本の近世文学や近代文学が好きで、井原西鶴や谷崎純一郎や太宰治あたりを図書館にこもって読んでいたことを思い出します。友達が少なかったので(´・ω・`)

そういう暗いバックグラウンド(?)を持っているということもあって、発作的に日本の近代文学を読みたくなることがあります。そこで今回の発作では三遊派の中興の祖であり、言文一致体ならびに日本近代文学にも影響を与えた三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』を手に取ってみました。

久々に読む近代文学であり、またもともとが速記本ということで、読むのに苦労すると思いきや、意外にもすんなり読み進めることができました。目の前で落語家や講談師がまくし立てているかのよう――というと、少し大げさですが、しかし文章のリズム感がよく、古めかしい言い回しや単語を除けば、かなり平易に読むことができたと思います。

内容としては、壮大な因果の物語とでもいえましょうか。登場人物が何世代にもわたって、因果律により切り結ばれ、そして悲劇的な結末を迎えます。そのスケールの大きさはなかなか壮観でした。また結末はまるで推理小説でいうところの「叙述トリック」のような仕掛けがなされており、長い物語を効果的に終わらせるには抜群で、エンターテイメントとしての質を押し上げているというような印象を持ちました。

ロバート・クリンジリー『倒れゆく巨象: IBMはなぜ凋落したのか』

倒れゆく巨象――IBMはなぜ凋落したのか

倒れゆく巨象――IBMはなぜ凋落したのか

「コンピュータといえばIBMIBMといえばコンピュータ」。そんな一時代を築き上げたIBMですが、いまや落日のもとにあることはよく知られています。なぜこんなことになってしまったのか? 本書はその理由について、さまざまな角度から検証しています。記述はやや雑多、口調はやや攻撃的ですが、非常に興味深い内容ではあったので、気になった点を2つブログに残しておきます。

経営の指標に株価を用いたこと

目標設定を行う上で、数値化しやすい指標を用いることは悪いことではありません。そこでIBMは株価という一般的でごくわかりやすい指標を用いたのですが、これが大失敗。株価を気にするがあまり、視野狭窄を起こしてしまったのです。たとえば低金利で借り入れた資金を技術への投資ではなく、自社株購入に使ってしまったり、帳面の上で財務状況をよくするためにリストラを行った結果、サービスの質の低下を招いたり……。株価の向上を経営の第一目標に掲げたとして、IBMは多くの道を誤ってしまったのでした。

とくに本書では「リストラ」に批判的です。確かに正社員を解雇して契約社員やオフショアに切り替えたり、福利厚生を縮減したりすると、数字上の財務体質は改善し、株価は上がるでしょう。短期的にはそれでいいかもしれませんが、提供サービスの質が下がったり、社員のモチベーションが下がったりと、長期的にみると大きなデメリットも当然存在します。IBMは自社の株価に目を奪われるがあまり、度重なるリストラを実施した結果、足元が崩れつつあることに気が付かず、現在の惨状へと陥ってしまったのです。

営業出身者が経営の主導権を握ったこと

テクノロジで名をはせたIBMですが、意外なことに営業出身者が経営を主導してきました。営業は営業で必要な仕事ですし、ある意味でテクニカルな職種ではあるのですが、しかし営業ならではの弱さもあります。本書は営業が経営を行うことのデメリットをいくつも紹介していますが、個人的にかなり意外だったのはコモディティ化に弱い」ということ。

技術というものはかならずコモディティ化します。市場が成熟し、先進的な技術が当たり前になったとき、舞台は価格勝負へと移っていきます。こうなったとき、IBMは先進テクノロジ企業として、安く高品質な商品を市場に供給すればいいにもかかわらず、実際は市場から手を引いてしまう。要するに「営業」的なマインドで経営をしていると、大きく儲けるところに力を入れすぎ、小さな商いをないがしろにしてしまうのです。

いわれてみると、比較的コモディティ化したジャンル(たとえばサーバやクラウドやモバイル)ではIBMのビジネスはお世辞にもうまくいっていないような気がします。サーバ事業に至ってはレノボに売却し、完全撤退を決めてしまいましたし、意外にこらえ性がない企業なのかもしれませんね。では先進的なジャンルで優位性があるかというと……やはり疑問符が付きます。Watsonぐらいなものですかね? しかしAIというのは世界の名だたる企業が力を入れている分野ですし、すぐにコモディティ化して、先行者利益が失われそうな気もします。


  1. 本書のタイトルの元ネタはガースナー『巨象も踊る』。ワトソン親子亡き後、がたがたになったIBMを立て直したCEOの自伝ですね。
  2. 調べたところ日本IBMは3年連続増収増益ということで、好調のようです。IBM全体で見ると不調にもかかわらず、日本だけ調子がいいというのは不思議な感じがしますね。なんでだろう?
  3. 普段は小説しか読まないわたしがなぜ特定の企業に関するビジネス書を読んだのかについては――お察しください(´・ω・`) ヒント: わたしは今年の4月に大学を卒業して、大手の外資SIerにSEとして就職しました。

巨象も踊る

巨象も踊る

最近読んでよかった本: 『宇宙の戦士』『夏子の冒険』『ドキュメント パナソニック人事抗争史』『サイバー・インテリジェンス』

4-5月には20冊強の本を読んだのですが、いくつかよかった本があったので紹介してみます。ジャンルや洋の東西はめちゃくちゃです(´・ω・`)

ロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』

本作はいわゆるSF/スペースオペラであり、そういうテーマから読んでも面白いのですが、わたしがなにより惹かれたのはそのストーリー。「どこにでもいる青年が厳しいブートキャンプを経て、一人前の兵士へと変わっていく」。わたしが本作を読んだのはちょうどきつい新人研修の途中であり、つらさに差はあるとはいえ、置かれている状況は本作の主人公と同じでした。それで余計に感情移入してしまったのかもしれません。

もっとも内容が内容ですから、「力による支配」「ナショナリズム」「植民地主義」「軍国主義」などを肯定しているようにも思われるかもしれません。ですが、わたしはその表層に流れる思想はさておいても、子どもから大人へと脱皮していくその過程に感動し、ついつい自分に置き換えてしまったのでした。

三島由紀夫『夏子の冒険』

夏子の冒険 (角川文庫)

夏子の冒険 (角川文庫)

主人公の夏子が世をはかなんで、修道院へ入ろうとする場面に始まる小説です。しかも修道院に入る理由はというと「いいよって来る男たちが総じて小市民的だから」。この理由を読んだとき、正直なところわたしはどきっとしました。わたし自身もついつい小市民的になりがちだからです。「過去の自分は今の自分=夏子が嫌うような男になりたかったのだろうか?」とついつい考えてしまいました。

ついで夏子はある男に恋をして、北海道へ冒険に出かけるのですが、このあたりの描写はややぬるめの冒険小説といった趣で、個人的には結構好きです。また理解不能な女が恋により理解可能な女になっていくというストーリーはフェミニズム的にも何か語れそうな気もしますね。

岩瀬達哉『ドキュメント パナソニック人事抗争史』

昨今凋落の激しい日本の電機業界ですが、その先陣を切った(?)のがPanasonic。経営の神様が作り、在阪企業の雄であったPanasonicがなぜここまで落ちぶれてしまったのか? 著者は綿密な取材から、その原因を経営者の人事抗争にあったと分析しています。

詳しい内容は読んでいただくとして、わたしの感想をふたつ述べておきます。まず「人事は難しい」ということ。適切な能力を見抜き、その人を適切な場所に配置するだけでなく、そこに情やしがらみを介在させてはならない。とにかく難事業であるということが伝わってきました。

次に「男の嫉妬は恐ろしい」ということ。よく女の嫉妬は恐ろしいといいますが、男の嫉妬のほうがなお恐ろしいということがよくわかりました。また嫉妬や矜持や保身や権謀術数がPanasonicが進むべき道を誤らせていくという恐ろしさも感じました。

伊東寛『サイバー・インテリジェンス』

サイバー・インテリジェンス(祥伝社新書)

サイバー・インテリジェンス(祥伝社新書)

インテリジェンスとはいわゆる諜報活動のこと。本書によれば、国家間の諜報活動がサイバー空間に広がりつつあり、それが外交や戦争の形を変えつつあるそうです。つまり兵火を交えるだけが戦争ではなく、インターネットのようなサイバー空間を制することがひとつの戦争であると述べているのです。よく戦争とは情報であるといいますが、インターネットほど情報をやり取りしている場所はないわけですから、インターネットやサイバー空間を制することがそれすなわち外交面での優位という図式には説得力があります。

少し推測や予想が多いような気も受けますが、諜報活動は各国ともに隠密裏に行うことですから、ある程度仕方ないという側面はあります。また著者はもと自衛官とのことで、守秘義務に抵触するようなこともあるのでしょう。まあ話し半分に読み始めたら、なかなか面白いというタイプの本かもしれませんね(´・ω・`)

近況報告(就職1か月記念)

外資系のSIer(そこそこ大きめ)に就職しておよそ1か月。思うところがあったので、いくつか箇条書きにしてみます。本当はきちんと文章にしたいのですが、疲れていてそれどころではないという(´・ω・`)

  1. 職種が変わりました。内定の時点では技術営業(プリセールス)へ配属予定でしたが、入社してみるとなぜかITコンサルタント。応募の時点ではSEだったのに、どうしてこうなった……。開発はおろか、技術からも遠ざかっています(´・ω・`) ちなみに職種変更に際して、とくに説明はありませんでした。

  2. 現状はコンサルとして研修を受けているわけですが、この研修がつまらない。研修メニューの半分がコンサルの仕事に必要なもので、残り半分が自己啓発Java? SQL? TCP/IP? 何それおいしいの? これがあと2か月続くと考えると、今から憂鬱になります。なお研修メニューに技術的なものはまったくありません。

  3. キャリアの終着点はプロマネ。もしくはアーキテクト。要するに上流工程こそ至上で、下流工程に関心があるというと変人扱い。というか技術的な関心を持っているだけで、変人扱いされるのは結構つらい。上長がRubyのことを知らなかったのはちょっとびっくりした。

  4. 長時間労働上等。サービス残業上等。風のうわさによれば、午前様は当たり前で、2-3日連続の徹夜もざらにあるらしい。その分残業代が跳ね上がるかというとそうではなく、むしろ残業代を申請することが倫理的な悪とみなされます。実際、受けないと怒られる研修が業務「外」で行われました。

  5. 配布PCのOSがWindows7。主要なアプリケーションのほとんどはJavaで作られており、とにかく重たい。フリーズもしばしば。とくにメールクライアントがしょっちゅうクラッシュするのは勘弁してほしい。

まだまだ書き足りないのですが、今日はこの程度にしておきます。不満が多すぎて、時間がどれだけあってもたりません。

SIerに就職した以上、多少は覚悟していたのですが、ここまでとは全く思っていませんでした。研修はともかく、働き出したらどうなることやら。正直にいって、今の会社/部署/職種で何年も働ける気がしません。6月のボーナスが出たら、転職活動も考えようかしら。4月に受けた応用情報処理技術者試験の結果もそのころになれば、わかるはずですし。

今週のお題と近況報告。

今週のお題「卒業」: 近況報告もかねて。

この3月に大学を卒業しました。足掛け5年、ふつうより1年長い大学生活ははたして実りあるものだったかどうか。確かに大学に通ったことによって、得たものは大きいと思います。とりわけ3年生から所属したゼミナールで研究したことは自分の趣味に直結することであり、一生遊べるおもちゃをもらったようなものです。少なくとも自分自身のQOL(?)だけを考えると、大学に通ってよかったと感じています。

とはいえ大学(それも国立大学)を卒業したと胸を張れるだけの、ひとかどの人物になれたかどうかはわかりません――というか、なれませんでした。社会科学を専門とする学部に通って理解できたのは、社会科学および社会とはきわめて複雑で簡単には語り下ろせないということ、そして自分には社会の役に立つような能力がないということ――そのふたつぐらいでしょうか。

とりわけ税金が投入されている国立大学には国家や産業や社会を支えるエリートを養成する役割があることはいうまでもありません。そういう場所に他人より余計に通って、結局お稽古事程度のことしか成し遂げられなかったのは自分の能力の低さがあるからであり、申し訳なく思います。今になってあれこれいっても仕方のないことですが――学費やそれに付随したもろもろのお金を別のところ(たとえば中等教育の拡充など)に利用したほうが、よっぽど世のため人のためになったはず。とくにわたしは大学の専門とは全く関係のないところに就職するので、余計に立派な学士様になれなかったことを恥じているわけです。


最近某商社に就職する人と話す機会がありました。その人は商社を中心に就職活動をしていたのですが、いわく「商社の志望理由として『発展途上国の経済発展に貢献したい』という人が多い」とのこと。正直にいって商社と発展途上国の発展が結びつく理屈自体さっぱりわかりませんが――それはともかく、もし仮に本当に発展途上国のことを親身に思うのであれば、その商社に入社する権利をその途上国の若いエリートに譲ってやったほうがいいとわたしは感じました。商社で身につくスキルをはいて捨てるほどいる日本人ではなく、真に国を思う途上国のエリートに学ばせたほうが、より効率的に発展途上国の発展に結びつくような気がするのです。

あるいは開発経済学を学びにアメリカに留学した人もいました。そのこころざしは立派ですし、留学のための奨学金をもらう勉強などは大変なものだと尊敬はしますが――やはりその留学に行くお金を途上国の教育に寄付するほうがよほど途上国のためになったのではないかという疑念が消えません。もちろん開発経済学を研究する人間がいるからこそ、よりよい途上国の発展があるわけです。そのあたりのことは重々承知の上、それでもなお途上国に住む何千人ものひとびとを上から救うお金をはたいて、途上国を救う研究をするということに奇妙なわだかまりのような感情を抱かざるを得ません。

要するに本音と建前、その区別がわたしにはわからないのです。


本ブログは読書ブログですが、最近読書欲が減退気味です。理由はペーパーバック読みを再開したから。実はときおり猛烈に洋書が読みたくなるようなシーズン(?)があり、ちょうどいまがそれにあたります。しかもペーパーバックを読みだすと、なぜだか日本語の小説を読むのが猛烈におっくうになるという症状もあり……。

当面は書き溜め(というか読みため)があるので、それを定期的に記事にしたいと思います。しかしペーパーバック読みたい症候群がどこまで続くのか……。ふだんなら数か月で飽きてくるのですが――実は最近Kindleの導入を考えています。ふだん洋書を読むときは電子辞書を使うため、読書ができるのはその辞書を開ける場所に限ります。しかしKindleを使った場合、辞書が内蔵されているため、いつでもどこでも洋書を読めるということになり、当面洋書を読み続ける可能性があります。仮にかなり長期間にわたって症状が治まらず、記事のストックがなくなった場合は代替措置を講じたいと思います。まだ未定ですが(´・ω・`)


大学卒業ののちは社会人になります。ファーストキャリアは外資系のSIerになりました。どちらかといえばPGやSEを希望していたのですが、技術営業になりそうです(´・ω・`)。開発に回してもらえるよう希望はしますが、だめそうなら転職ですかね。1年ぐらいは様子を見て、だめそうならぼちぼち動き出そうと思います。それまではスキルを蓄えておかないと! あとはCodeIQのプロフィールを充実させておきます(今は空欄)。

ケン・フォレット『針の眼』読了。

針の眼 (新潮文庫)

針の眼 (新潮文庫)

 本題に入る前の蛇足。今回わたしが読んだのは新潮文庫版ですが、絶版。現在は創元推理文庫から出ています。また新潮文庫版のあとがき(戸田裕之/p.549)によると、新潮文庫以前はハヤカワ文庫に本作品が収録されていたとのこと。確かにAmazonをみるとありますね。しかし絶版。

 ここまでをまとめると本作品はハヤカワ文庫/新潮文庫/創元推理文庫の順番に収録されており、現状手に入るのは最後の創元推理文庫版になるということです。邦訳でこれだけ版元が変わるのも珍しい。しかし逆に考えると本作がそれだけ読み継がれてきたということであり、本作の名作性傑作性を証明しているということになります。

針の眼 (創元推理文庫)

針の眼 (創元推理文庫)

針の眼 (ハヤカワ文庫 NV 319)

針の眼 (ハヤカワ文庫 NV 319)

 本作の舞台は第2次世界大戦期のヨーロッパ。ドイツのスパイ<針>が連合国の重大機密を取得、それを本国に報告すべく英国を脱出しようとする一方、英国の諜報当局も<針>の活動を把握しており、彼の帰国を阻止しようとそれをしゃにむに追いかける。さて<針>は無事英国を脱出できたのでしょうか――というのが本作のあらすじ。これだけでわくわくしてきますね。実際に読んでみると、練り上げられたプロットが目まぐるしい場面転換によって語られており、 これぞスパイ小説/冒険小説といったおもむきを醸し出していました。

 また本作の美点は追う側と追われる側の対比にあると感じました。まず追われる側の<針>はどちらかといえば動物的です。一匹狼で猜疑心が強く、殺人もためらわない。逃げ回る際は確かに論理的に考えは巡らせるものの、最後は自らのスパイとしての勘を頼りに進む道を決めていきます。対して追う側の諜報局は極めて理性的。なぜ<針>がこのような行動をとるのかということを常に考えながら、じりじりと<針>を追いつめていきます。

 この対比がとりわけ生きるのが最終章でしょう。<針>は優秀なスパイですが、その優秀さの源泉である動物性が彼を物語の終焉においてある行動に駆り立てます。それが理性的な諜報局とどう衝突するのか――最後の1ページまで目をそむけることができない。そんな作品でした。

アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』読了。

 先に断っておくと、今回わたしが読んだのは旧版ですが、アマゾンを見る限り絶版の模様。旧版と同じ創元推理文庫から新訳が出ているので、とくにこだわりなどがない場合はそちらを読むことをおすすめします。手に入りやすいですし。ちなみにわたしは旧版の表紙が好きだったのでそちらを選択しました。古い創元推理文庫の表紙にはあらすじが記載されており、その結果非常にごちゃごちゃした印象を受けるのですが、わたしはその感じがなんとなく好きで、手に入る場合はそういう表紙の本ばかりを集めてしまっております。

 「推理小説を読む楽しみとは何か?」この問いかけには十人十色の回答があると思いますが、本作では次のふたつがとりわけ重要視されています:「意外な犯人」「論理的な推理過程」。いやむしろ本作にはこのふたつしかないのです。まずとある謎が提示され、それに対し6人が6人とも違う探偵法を用いて、違う犯人にいたる。嘘偽りなく本作はただそれだけの作品です。おそらく推理小説にあまりなじみのない人が本作を読むと、困惑しきりでしょう。「何が面白いのか」以前に「どう楽しめばいいのかわからない」という状態になると思います。しかしある種の推理小説ジャンキーにとっては作中に展開される論理的な推理過程に身をゆだねることが天上の快楽であり、それ以外はおまけに過ぎない。つまり本作は推理小説のある側面を異常なまでに掘り下げ、かつそれ以外の要素はほぼ投げ捨てた作品なのです。

 本格推理小説の低迷を憂える文脈において「初心者向けの本格推理小説とは何か」というテーマが議論に上がることがままあります。要するに初心者向けの本格推理小説を業界の外にアピールして新規の読者を呼び込みたいということですね。ただ実際にそのような議論に決着はつかず、今の今に至るまで初心者向けの本格推理小説が明快に定義されたことはありません。そもそも難易度や面白さといった主観的で量的に計測しづらいものに統一的な尺度を導入するというのは無理な話でしょう。とはいえわたしは明確に玄人好みの作品は存在すると考えています。推理小説という形式そのものに挑戦する作品や批評的な視点やメタフィクションの視点を取り入れた作品などです。そしてその観点から行くと本作は明らかに玄人好み。しかし逆にいうと本作を楽しいと思えるなら、立派な推理小説ジャンキーあるいはその素質を十分に持ち合わせているといえるのではないでしょうか。