nekoTheShadow’s diary

技術ブログとして始めたはずが、読書&愚痴ブログになりました(´・ω・`)

山平重樹『闘いいまだ終わらず: 現代浪華遊侠伝・川口和秀』(幻冬舎アウトロー文庫)

お断り: 本作はいわゆる暴力団の組長を肯定的に描いた作品であり、実録という形をとってはいるものの、その内容がどこまで信用できるかについては議論の余地がある。以下に好意的な書評・感想を述べるが、これは本作の内容をすべて信じているということではない。また本作に肯定的であるからといって、現代の暴力団排除の風潮に反対するわけではないし、ましてや暴力団の存在すべてを肯定するということを意味しない。ただし、社会的に排除されるべき暴力団を肯定的に描いているからといって、その作品に価値がないという価値観にはくみしない。要は是々非々である。

2-3年前ほどになるが、『ヤクザと憲法』というドキュメンタリーが話題になったことがある。これは東海テレビのクルーが2代目東組の2次団体2代目清勇会に東海テレビのクルーが100日間密着、その日常生活を撮影するというもので、暴対法や暴排条例がどれほど法の下の平等に反しているか、警察権力や国家権力がやくざや暴力団という存在に対してどれほどまでに横暴にふるまっているのかがよくわかる、とてもよくできたドキュメンタリーだった。さてこの『ヤクザと憲法』の密着先である清勇会の会長であり、ドキュメンタリーでも中心的な役割を果たしていた人物が本書の主人公である。なお本書は読んでいると評伝のように思える(それほど綿密に取材をしている)が、一応は実録小説ということなので、その中心人物は「主人公」ということになる。

本書のタイトルは『闘いいまだ終わらず: 現代浪華遊侠伝・川口和秀』というものだが、これは文庫になった際に改題されたもので、単行本時代は『冤罪・キャッツアイ事件: ヤクザであることが罪だったのか』というタイトルで刊行されていた。いわゆる「キャッツアイ事件」というと暴力団や反社に関心がある人にはよく知られた事件で、昭和60年兵庫県尼崎市のスナック「キャッツアイ」にて、清勇会組員が当時抗争中だった山口組系倉本組組員に対して発砲。倉本組組員は重傷だったが、店内にいた当時19歳のホステスに流れ弾が命中し、運悪く彼女は帰らぬ人となってしまう。その痛ましさから暴対法制定のきっかけとなった事件で、主人公はこれを首謀したとして15年の懲役を余儀なくされてしまう。

しかしこれは冤罪であった。主人公は腎結石持ちで、実行犯2名に犯行を指示したとされる日は入院していたのである。要はアリバイがあるのだが、しかし警察としては末端組員2名を捕まえてもつまらない。そこで実行犯に対する拷問や恐喝に近い取り調べを行って「会長からの指示があった」という供述を引き出して、主人公を無理やり逮捕(なお実行犯と主人公の間にはいさかいがあり、これも実行犯が虚偽の証言をする動機のひとつになっている)。検察は警察とツーカーの中であるから、証拠不十分とわかっていて起訴に持ち込み、裁判所は「相手はやくざだからやったに違いない」と決め込んで、道理の通らない有罪判決を下してしまう。実は公判中に実行犯自ら虚偽の証言をしたことを告白するのだが、裁判所はこれに取り合おうともしない。日本の警察や司法が腐りきっていて、日本社会において法の下の平等というのは美辞麗句に過ぎないことが痛感させられる。

警察や検察や裁判所もさることながら、拘置所や刑務所もなかなかのひどさである。施設の方針や担当者の気分次第で法律上は当然通るべき理屈が通らないというのは序の口。ひどいものだと、受刑者に対する人権侵害や暴力が権力によって握りつぶされてしまう。やってもいない罪で収監され、22年の懲役を過ごす刑務所は無法地帯。再審請求をしても、やくざだからという理由ではねつけられる--絶望的としかいいようがない状態で、なぜ気を確かに生きていられるのかというと、それは筋の通った任侠だからとしかいいようがない。よく「筋の通った極道」といういいかたがなされるが、主人公はまさしくそれである。やくざというと反社会性ばかりが強調され、そしてそれは多くの場合で間違っていないのだが、その義侠心ゆえに曲がったことが許せず、代議士や官吏や知識人が自分たちに都合よく定めた秩序へ反抗し、結果として反社の烙印が下されるという侠客もなかにはいるのかもしれない。

安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館)読了。

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵を踏んだキリシタン (歴史文化ライブラリー)

踏絵あるいは絵踏というと「強権的な江戸幕府が無知蒙昧な人民を支配すべく、人民の内心を踏みにじり、思想統制をおこなった」というような語られ方をすることが多い。本書が提示しているのは、そのようなマルクス主義的なイメージとは全く異なる絵踏像--とまではいわないものの、そのようなイメージ先行で論じられがちな絵踏について、実際のところはどのようなものであったかを資料から丁寧に洗い出している。

絵踏というのは江戸幕府の事業で、全国津々浦々もれなく厳格に実施されていた--と個人的に勝手に勘違いしていたのだが、実際のところ、絵踏を行っていたのは会津藩のような例外を除くと、長崎とその周辺の九州の一部地域だけ。また当時江戸幕府の直轄地域だった長崎は別として、絵踏の実施主体は藩であり、藩や地域によって熱意や方法に大きな差があったようである。

本書を読んでいると、藩が本気でキリスト教を取り締まろうとしていたのか、疑問に思えてくる。ほとんどの藩では全領民を対象として、定期的に踏絵を踏ませていたようだが、疫病が流行っている地域はスキップしたり、年貢の早納めをした地域は免除したりという話を見ると、いよいよ怪しくなってくる。また江戸時代には「崩れ」と呼ばれるキリスト教徒の大量検挙事件が数回起きているのだが、江戸時代初期や幕末などを除くと、このほとんどはキリスト教とは無関係として裁かれている。そもそも絵踏は幕府肝いりの事業で、それを熱心に実施しているにも関わらず、キリスト教徒が現れるとなれば、絵踏に意味がないということになり、ひいては幕府の威信にもかかわりかねない。藩側もこれを理解していた節があり、ではなぜ絵踏を行っていたかというと、幕府への恭順をアピールするためというのが本書の結論のひとつである。

当時の長崎は江戸幕府の直轄地域だったことは先に述べたが、その総責任者である長崎奉行にとっても事情は同じで、幕府の禁教政策を滞りなく実施していることを示す格好の材料として、絵踏を実施していたきらいがある。ちなみに絵踏に欠かせない踏絵だが、一部の藩を除くと、長崎奉行の管理下にあったという。つまり絵踏を実施するには、長崎奉行から踏絵を借り出す必要があるわけで、この「借り出す」という行為も幕府に対するロビー活動のひとつであったという。あるいは「貸す」側の長崎奉行にとっても藩に対するプレセンスを高めつつ、「仕事してますよアピール」を幕府に送るうえで絶好の機会であった。

また絵踏というと「厳か」「悲劇」「沈痛」というような修飾がつきまといがちだが、本書を読むと異なる絵踏像が浮かび上がってくる。特徴的なのは長崎で、長崎では松の内に絵踏が行われていたという。現代日本では明治神宮への初詣や箱根駅伝の応援などが正月のニュースになるが、それと同じで、当時の長崎では絵踏もまた正月の年中行事・恒例行事として扱われていた可能性がある。あるいは絵踏会場の近辺に市がたったり、遊女が絵踏に来る日には見物客が押し寄せたりと、「厳か」「悲劇」「沈痛」では語れない絵踏の実態があったことがよくわかる。

もちろん、当時のキリスト教信仰者にとっては絵踏はつらく苦しい、気の重くなるイベントであったことは間違いない。しかしその絵踏があったにも関わらず、隠れキリシタンたちが江戸時代を生き延びていけたのは、絵踏それ自体がさほど苛烈ではなかったということの裏返しでもある。「絵踏さえ乗り切れば、信仰を捨てなくてもよい」という割り切りがキリシタン側にあった可能性だって考えられる。

本書は絵踏が幕藩体制の中でどのような意味を持ち、それを民衆がどのように受容したかが中心であるが、それ以外にも「漂流民に対する絵踏はどのように行われたのか」や「長崎に合法的に滞在する外国人に対して絵踏は行われたのか」といった、絵踏に関してあまり知られていない事実についても簡潔にまとめられている。歴史やキリスト教に関心があるならば、読んで全く損がない1冊だと思われる。

ここ2-3か月の読書メモ。

マリオ・ルチアーノ 『ゴッドファーザーの血』 (双葉社)

ゴッドファーザーの血

ゴッドファーザーの血

『ゴッド・ファーザー』のモデルになった人物の血を引き、みずからもマフィアの一員として世界を飛び回ったあと、日本ではやくざの盃をうけて、いわゆる経済やくざとして活動。現在はイタリアンレストランを経営している--というあらすじだけで、波乱万丈の生涯を送ってきた人物の自叙伝である。ふつうのサラリーマンをしていると、なかなかかかわりあいにならない世界の話のことなので、興味深く読んだ。ちなみに著者がオーナーのレストランだが、以前に食べに行ったことがある(本書を読んだのはこれがきっかけ)。たしか会社の新人歓迎会か何かで、料理はかなりうまかった記憶がある。

一橋文哉『餃子の王将社長射殺事件』(角川書店)

餃子の王将社長射殺事件

餃子の王将社長射殺事件

餃子の王将といえば安くてうまい中華料理レストランチェーンだが、その社長が白昼堂々銃殺され、その殺害方法から暴力団の関与が疑われつつも、犯人がいまだ逮捕されていないというのは世間に衝撃を与え続けている。本書はその餃子の王将社長銃殺事件の背景に迫ったものである。どこまで本当なのかは判断に困るが、日本全国に店舗を構える上場企業がこれだけの問題を抱えている、それも闇の深い問題ばかりというのは、個人的には衝撃だった。

猫組長・西原理恵子『猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言 』(扶桑社)

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

著者は山口組につながる組長という身分でありながらTwitterを開設し、山口組分裂騒動の際には独自情報を矢継ぎ早に公開したことで知られる人物である(現在はかたぎらしい)。やくざのしのぎというと薬物や用心棒や債権回収や違法賭博などを思い浮かべるが、著者は国際金融の世界でしのいできたらしく、本書にはその知見がさまざまに披露されている。とりわけ暴対法の影響で、やくざ社会は経済的に苦しいとされるが、その中でも稼いでいる人は稼いでいるということである。自分の知らない世界、障害かかわらないであろう世界のことであるから、興味深く読んだ。

磯部涼『ルポ 川崎』(サイゾー)

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

川崎市全域というか川崎市川崎区の一部地域について、HIPHOPやそれに近接するジャンルへのインタビューを通して、その実態をあぶりだそうとした1冊である。実をいうとわたしも川崎市民なのだが、本書が扱っている地域にはあまり縁がなく、知らないことだらけだった。「不良文化が煮詰まって、にっちもさっちもいかなくなっている」というのが読み終えての感想で、不良文化に親和性が高いHIP HOPを中心に据えたのは正解だったと思う。

山平重樹『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目石井隆匡の生涯』(幻冬舎アウトロー文庫)

ノンフィクションではなく、限りなく実話に近いフィクションで、稲川会二代目会長がその主人公である。名門の旧制中学を暴力沙汰で退学になったあと、愚連隊・博徒・経済やくざとステップアップしていき、晩年には竹下首相の命運を握るまでにいたる--その波乱万丈の内容が面白いはもちろんのこと、かなり綿密に取材していることが節々にうかがわれる点に好感を抱いた。

鈴木智彦『鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記! 』(宝島社)

鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記!

鈴木智彦の「激ヤバ地帯」潜入記!

著者は暴力団専門のジャーナリストだが、本書はその専門以外の「激ヤバ地帯」に自ら飛び込んでいった取材録である。「激ヤバ地帯」ルポオムニバスといった具合で、どれを読んでも知らない世界のことばかりだった。この本は日曜の夕方、子供たちが騒ぐ中、サイゼリアで夜ご飯を食べつつ読んでいた記憶があるが、少なくとも食事中に読む内容ではなかったとだけはいっておく。タイトルで判断しろ、といわれればその通りだが(´・ω・`)

北方謙三『草莽枯れ行く』(集英社文庫)を読んだ。

草莽枯れ行く (集英社文庫)

草莽枯れ行く (集英社文庫)

本作の主人公は相楽総三で、一介の尊王攘夷志士に過ぎなかった青年期から偽官軍である赤報隊の隊長として処刑されるまでを描いている。歴史小説というジャンルにうといため、とんちんかんなことをいっているかもしれないが、相楽総三はどのようにも描ける人物だと思われる。たとえば赤報隊が本当に偽官軍だったという立場をとれば、相楽総三は相当な野心家であり、幕末という揺籃期に功成り名遂げようとした山師ととらえることができる。一方、薩長政権の都合で偽官軍の汚名を着せられたとすると、相楽総三は純粋がゆえにみずらかの身を滅ぼすことになった悲劇のヒーローと描くことができよう。

本作は後者的な立場から相楽総三を描くが、面白いのはもうひとりの主人公に清水次郎長を据え、両者が相通じあっていたという設定にしたことである。清水次郎長というと、博徒無宿の大親分として子分を引き連れながら全国津々浦々を巡ったというイメージが強いが、これは後世の創作によるもので、史実では早々に博徒は引退し、清水港の荷役を仕切る事業家という側面が強かったらしい。本作は創作と史実のちょうど間--それよりはやや史実よりに清水次郎長を描いている。

相楽総三尊王攘夷清水次郎長は任侠道。ものは違えど、両者はおのれの信じた道を迷いながらも進んでおり、そのふたりが男同士の友情で切り結ばれるのは必然といえる。しかし相楽総三は信じた道を純粋に突き進んだがゆえに現実社会に裏切られ、たいする清水次郎長はやくざ稼業にありながら、現実社会とうまく折り合って、ひとかどの人物へと成長していく。攘夷志士にしろ博徒にしろ社会のはみ出し者だが、そのはみ出し者の片方は処刑され、もう片方は成功する。この対比が相楽総三の悲劇性を重層的にあぶりだしているといってよいだろう。

もっともここまで難しく読まなくとも、相楽総三清水次郎長という幕末の有名人に交流があったというのは、エンターテイメント的な面白さがある。ほかにも坂本龍馬土方歳三勝海舟山岡鉄舟など、幕末のヒーローがいれかわりたちかわり登場。清水次郎長側に目を向けても、大政・小政のような子分だけでなく、次郎長永遠の宿敵・黒駒勝三まで物語に関係する。史実かどうかはともかくとして、ここまで有名人ばかりだと、読んでいて楽しい。大衆小説や通俗小説としてもよくできている作品である。

ジャン=バティスト・マレ『トマト缶の黒い真実』(太田出版)を読んだ。

トマト缶の黒い真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

トマト缶の黒い真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

いまや日本の食卓にすら欠かせなくなりつつあるトマト缶。その原料となるトマトも含めて、どこからやってきて、どのように加工され、そしてどうやって食卓に届いているのかを追いかけてルポタージュが本書である。タイトルに「黒い真実」とあるように、その真相はまったく楽しいものではない。トマト缶を買う気すら失せるレベルである。

たとえばイタリア産やアメリカ産とラベルされたトマト缶が日本の片田舎のスーパーにすら並んでいるわけだが、これは原材料であるトマトがイタリアやアメリカで収穫されたということを意味しない。世界中から前歴不問・正体不明のトマトペーストを集めたあと、これに添加物や化学薬品をたっぷり混ぜて(ときにはトマトの割合以上に混ぜ物をするという)、イタリアやアメリカの工場で缶詰に詰めれば、そのトマト缶は晴れて「イタリア産」「アメリカ産」となる。原料となるトマト自体も、品種改良と遺伝子組み換えを活用して作られた、トマトペーストに特化した品種で、農薬が利用されたかどうかも判然としないような環境で栽培されている。

「トマト缶を買う気すら失せるレベル」としたが、これは単に「食の安全」に限ったことではない。トマト農園や缶詰工場はときにマフィアと結託して、児童や不法移民あるいは非正規労働者を活用。コストを可能な限り抑えつつ、圧力団体として政府を動かし、無茶苦茶なビジネスの横やりを通してしまう。

本書を読んで見えてくるのは、安くてうまくて便利なトマト缶が新自由主義とグローバリゼーションの申し子ということである。新自由主義は門地身分にかかわらない自由な経済競争を、グローバリゼーションは国境を越えた自由な移動をひとびとにもたらす--はずだったが、そのふたつが結託した結果、すさまじい経済格差と「階級」の固定化、あるいは新植民地主義としかいいようがない地域格差が出現したことはよく指摘されている通り。いわば新自由主義とグローバリゼーションの負の側面がトマト缶に表出しているのである。

ところで本書を面白くしているのは、こうした「ショッキングな真相の暴露」というセンセーショナルな観点だけではないということは断っておきたい。本書はノンフィクション作品ではあるが、構成がかなり練られていると感じる。最初のうちは情報が断片的にしか与えられない。これを読み続けていると、その断片的な情報が少しづつリンクし、読み終わって初めて全体像が明らかになる。冒険小説や推理小説顔負けといってよいだろう。また筆者は真相を探るべく、中国の新疆ウイグル自治区やヨーロッパあるいはアフリカなど、世界中を飛び回る。さながら世界をまたにかけるスパイであり、その雄大さが本書を読ませる原動力になっているといってよいだろう。

藤井誠二『黙秘の壁: 名古屋・漫画喫茶女性従業員はなぜ死んだのか』(潮出版社)を読んだ。

黙秘権が被告人の権利であるということは中学高校の社会科レベルの常識であるが、加害者の権利を守るという性質上、否応なく被害者の権利とは衝突してしまう。本書は黙秘権が「衝突」を通り越して、被害者や被害者遺族の権利を「踏みにじった」といわざるをえない、とある事件のルポタージュである。

事件はインターネットカフェを経営していた夫婦がそのパート従業員を死に至らしめ、その死体を遺棄したというものである。この加害者夫婦は被害者女性に対して、凄惨な暴力を恒常的に加えることで、彼女を奴隷的な拘束下に置き、常軌を逸した長時間労働や給料の未払い、経営費用の肩代わりなどを数年にわたって強制していた(明記されないが、そのような奴隷扱いを長期間受けた結果、被害者女性は精神に異常をきたしていたようである)。その挙句に日常的な暴力の延長で被害者女性を死に至らしめ、その遺体を山中に遺棄するのである。ここで加害者夫婦は告白書のようなものをしたためており、自らが殺害したことを書面上は認めているのだが、裁判では黙秘権を行使。警察や検察も殺人としては立件できず、結果としては死体遺棄として2年そこらの懲役にしか問えなかった。つまり人ひとりを殺したことが明らかにもかかわらず、2年も過ぎれば娑婆で自由の身。鬼畜外道・人面獣心の所業としか言いようがない。

被害者遺族を傷つけるのは、殺人者が殺人者として裁かれなかったことだけではなく、真実が明らかにならなかったことである。愛娘の最期がどのようなものであったのかを知りたいというのは人の親として当然の感情だろう。しかしその最期を知る人間は黙秘権をたてに何もしゃべろうとしない。また真実を知るべく、さまざまに活動してみても、加害者の代理人である弁護士があの手この手でこれを妨害。ときには被害者女性の名誉を踏みにじってまで、加害者の権利を擁護する。これが加害者の権利であり弁護士の仕事であるとわかっていても、残るのはわりきれない気持ちばかり。「刑事がだめなら民事で償ってもらう」というのも被害者遺族の当然の権利であり、実際に民事裁判では加害者が死に至らしめたことが認定され、相応の賠償が命ぜられるのだが、加害者は1円たりとも払う意思を見せていないという。

とりわけ冤罪の防止という観点から黙秘権というのは市民社会にとって重要な権利であることは承知しているし、実際、本書もそのスタンスである。しかしだからといって被害者やその遺族の権利をないがしろにしてよいか、と問われるとそれは違うだろう。被告人の権利を守りつつ、被害者の権利や名誉や損害も十分に回復できるような仕組みがあればよいのだが、わたしには思いつかない。わたしごときが思いつく程度であれば、だれも苦労しないし、悲しい思いもしないのである。

ところで自白の強要を防ぐべく、取り調べの全面可視化が大いに議論されている。しかし自白の様子が映像という言い逃れのできない形式で記録されるということは、かならずしも被告人に有利に働くとは限らない。たとえば「自白の強要があった」として無罪を主張するようなことは、取り調べが可視化されると難しくなる。本書によると、日本弁護士会はそういう情勢を見据えて、刑事裁判において黙秘権を積極的に活用するように呼びかけているという。要するに本書が取り上げた事件のようなこと、すなわち黙秘権により被害者の権利が黙殺されたり踏みにじられたりするということが、今後頻繁に起きてもおかしくないのである。長い間日本では、犯罪捜査や刑事裁判において被害者や遺族の権利はないがしろにされており、近年になってようやく権利意識が高まってきたということはよく知られているが、今後それが後退するかもしれないとなると、暗い気持ちにならざるをえない。

沢渡あまね『システムの問題地図 :「で、どこから変える?」使えないITに振り回される悲しき景色』(技術評論社)を読んだ。

システムの問題地図 ~「で、どこから変える?」使えないITに振り回される悲しき景色

システムの問題地図 ~「で、どこから変える?」使えないITに振り回される悲しき景色

もともとはCodeIQ Magazineで連載、CodeIQがSunSetした後はリクナビNextジャーナルに移籍した「運用ちゃん」という連載があって、いつも楽しみに読んでいるのだが、この「運用ちゃん」の作者(シナリオ)が書いた本だということで、興味をもって読んだ1冊です。

運用ちゃんの記事一覧 | リクナビNEXTジャーナル

本書のターゲットはIT業界全般というよりはむしろ受託開発。受託開発における問題とその原因が、ユーザ側と受託側の両方の観点からうまく整理されています。よくもわるくもSIは日本のIT業界の中心であり、かかわる人も多いはず。わたし自身もSIに勤めるSEなので、本書であげられるエピソードには「あるある」と首肯しつつ、ちょっと遠い目になってしまったり(´・ω・`)

「あるある」ポイントをあげだすと、まったくきりがないのですが、読書メモからいくつか抜粋しておきます。

  • 「運用でカバー」。これは本当にやめましょう、というかやめて(´;ω;`)ウゥゥ DevはOpsのことを考えてシステムを構築しない、というか予算や納期に押しまくられてOpsのことまで考えている余裕がない。Opsはひどいシステムのお守りに時間を取られて、スキル向上や現場カイゼンに割く余裕がない。DevとOpsに一線を引く、そして前者を上位におく日本のIT業界の慣習は改めていく必要がありますね。
  • 「俺はITシロウト」という開き直りは、程度の差はあれよくやられる手法です。エンドユーザならともかく、情シスや情報子会社までこの開き直りすることがあって、これが本当にたちが悪い。この開き直りをどうさばくのかがベンダーの腕の見せどころなのですが、金を払う側ともらう側という関係上、コントロールがなかなか難しいというのも現実だったり……。
  • 予算の見積もりや要件定義が甘くて炎上。プログラマの屍を積み上げて、その炎上を消し止めたものの、構築したシステムをユーザは使おうとしない。だれも幸せにならなかったパターンですが、SI業界にはざらに転がっています。まったく生産的ではないので、すくなくともわたしの世代で止めていきたい(謎の決意)
  • システム開発においては要件定義が重要。というか上流が失敗すると、まず間違いなくPJTは炎上もしくは破綻します。業務要件はもちろんのこと、忘れられがちなのがシステム要件。いわゆる非機能要件というやつで、ユーザはどれぐらいか、DiskやCPUはどのぐらい必要か、サービスの開始と廃止の基準はどのように設定するのか etc。これらをないがしろにすると、本当に痛い目に合うので、気を付けましょう(実体験&現在進行形)

「問題地図」とタイトルにあるとおり、システム開発・受託開発における問題点がこれだけうまく整理されている本はほかにないのでは? SI側の人間はもちろんのこと、何の因果かユーザ側のIT部門に飛ばされたというような人にとっても、勉強になる1冊ではないかと思います。ただ褒めるだけはよくないので、しいて文句をつけておくと、本書は「問題を列挙する」ことに焦点を置いています。もちろん、問題点をMECEに列挙するだけでも、たいへんな価値はあるのですが、それをどう解消するかについてはやや薄いという感想を持ちました。

もちろん問題に対する解決策が示されないわけではないのですが、やや書生論のきらいがあるように感じたのも事実。たとえば業界全体の風土の刷新であるとか、ユーザ企業側のリテラシ向上であるとか、確かにその解決策は理想的で論理的ではある。しかしなんの力も持たないSIer勤務のSEや社内SEが身近なところから実践していきたいという場合、本書には即効性はないと言わざるを得ないでしょう。

ただそんな即効薬を本書に求めるのは間違っているという指摘は正しいですし、本書の価値のほとんどは「問題点をまとめて、論理的にわかりやすく説明してみた」というところにあります。そんなに分厚い本ではなく、実際サイゼリアで夜ご飯とデザートを食べながら1.5時間ぐらいで読み切れる分量(行儀悪い!!)なので、SI業界に問題意識がある人(いない人などいるのか?)は読んでみて損はない1冊だと思います。